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2006年3月

2006.03.31

“悪人”とは、進化した人類だ

 10年くらい前に読んだ、オリバー・ストーン監督作品のノベライズで主人公が、
 「生物はその環境で快適に生きる為に進化を続けて来た。なら、悪人こそ進化した人類だと思わないか?考えても見ろ。あくせく働くよりも、そうやって働いた奴等の稼ぎを奪い取る方が簡単だ。・・・」
 と言った類の事を語らせていて(この話、確か前にも書いたよね?)、このセリフは表面上の過激さ故?映画ではそのシーンは無くて、ノベライズでだけ語られていたが、ノベライズだけだったのはきっと、上のセリフは逆説的に悪を否定しているのだが、そう読む人、読まない人の関係なく、表層では悪を肯定している為、理解力や洞察力に多様な人が観る事になる映画では使われなかったか、使えなかったか、使わせてもらえなかったかの、どれかだと思う。

 そんな些末事はおいといて、この問いをもう少し深く掘り下げてみよう。

 悪人は進化した人類なのか?

 もちろん、僕はそうとは思わない。

 “快適に生きる為”に進化すると言う、その”快適”とは一体何だろう?上のセリフが出てくる作品を読む限りでは、”快適”とは、暑くも寒くも無く、飢えても渇いてもいなくて、所有欲や支配欲、性欲が適度に満たされている状態。と推測される。
 これらは、マズローの提唱する欲求階層論、その第4番目までの欲求にあたる。マズローの説によると、欲求の第4段階までが満たされた人は、その上に位置する、自己の成長や発展の機会を求めたり、独自の能力の利用、および潜在能力の実現を求める欲求へと至る。と説くのだが、マズローはさらに、下位の
4段階を「欠乏欲求」と定義し、欠乏が満たされた時、その人は自己実現や自己の可能性を追求する「成長欲求」に至るとしている。
 成長欲求に至る条件を満たしながら、そちらに向かわずに欠乏欲求を肥大化させたこの悪人は、進化したとはとても言えないだろう。
 もしこれを進化と呼ぶのならば、食欲に従い続けて肥満した人達は進化した人類となる。

 しかし実際はどうだ?

 過剰栄養で肥満した人は、健康上の様々なリスクを抱えて早逝し、“遺伝子の保存”という、生物の基本的欲求を満たす機会からも遠ざかり、進化論的に淘汰される側になる。

 この物語は90年代中盤のアメリカを舞台にしているが、(今は多数派となってしまったが・・・)低所得者層以外には、生きて行く為に必要な物は全て揃っているアメリカで、欠乏欲求を満たされた登場人物が、成長欲求に向かう事無く欠乏欲求を拡大させたのを、10年経った今振り返ると、ある意味象徴的ですらある。


 少し話が逸れてしまったが、欲求に任せて快適を追求しても、そこに自制が働かなければ肥大した欲望で自身を滅ぼしてしまう。そんな存在になる事が、”進化”と呼べるだろうか?
 私には、とてもそうとは思えない。

 しかし、悪を否定し、廃除すると言う行為もまた、”否定”と”排除”と言う暴力性を含み、”暴力と言う名の悪”の肯定へと繋がる。

 もうこのくらいにしておこう。

 この問題を追求して行くと、”善と悪”とか、“人はどう生きるべきか”と言った人間学的観点から、全能である事を前提とした神が、その中に悪をも含む事・悪を肯定せざるを得ない事、をも受け入れなければならない。という、神学的観点にまで渡って論じる必要があるだろうし、私の頭脳はまだ、そのレベルには達していない。


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2006.03.30

趣味は勉強です~学校教育の罪・編~

 ホームヘルパー1級講習もほぼ終了した昨今(後は実習を残すのみ)、空き時間には通信制の高等学校社会福祉専攻科のテキストを読んでいる。必修科目自体が興味のある分野で構成されていたが、選択科目ではさらに、自分が知りたい・学びたい分野を選んだので、“学ぶ事”自体はとても楽しい。

 34歳にもなって楽しみながら学問に励んでいる私だが、学童期の僕は成績こそは中レベルを維持させていたとはいえ、勉強は好きではなかったし、学校は嫌いで嫌いで仕方が無かった。
 僕の勉強嫌いはきっと、あの傲慢で横柄な教師達と、将来、効率的で生産的な賃労働者になる為の訓練としての学校システム、それと校則があるからだ!! と、そう自分の中で結論付けていたが、今読んでいる『人間学』のテキストに、それについて”目からウロコ“な論が述べられていた。テキストによるとこうだ。

現代の教育の特徴
現代の教育の特徴として、次の5点が指摘できます。
①学校教育の肥大化と教育の細分化
②能力主義と社会的役割の選別機能の高進
③達成価値と生産的人間の再生産
④教育工学の発達
⑤発達診断、教育評価テスト、内申書制度、カリキュラムの規格化と画一化などを含む、管理教育の普及。

 こうした特長を持つ教育が、自律的な学びを支えるどころか、逆に学びを妨げるように働くのは、自明の事と言えます。

(「人間学」栗原彬著、日本放送協会学園発行 より抜粋)

 ほらっ!学校教育が勉強を嫌いにさせるシステムである事が、学者からも指摘されているぞ!!

 本来、人間形成の発達段階である学童期にある者達に、生きる知識と技術を授ける筈の教育が、”学びを妨げるように働くのは、自明の事と言えます”と、人間学者に断言されてしまう様になってしまった。
 学びを妨げる教育システムの中で過ごし、その性格故に、『学校』という集団の中にある、『教室』と言う小グループ、その共同体を維持する為のスケープゴート(犠牲の山羊)とされる事が多かった私が、勉強嫌いになったのはこれもまた、自明の理だったと思う。

 学校嫌いの私がそこそこの大学に入る為、受験勉強に時間と労力を捧げる事は非合理的だと思えたし、さらに入学後最初の2年は受験勉強の反動で遊びまくり、残りの2年を不毛な就職活動に捧げ、4年間で何も学ぶ事無く卒業して社会に出るこの国の大学教育システムに魅力を感じなかったし、そこに資本を投下する価値を見出せなかった。
私は幸いな事に『バイクレース』に魅せられそこに身を投じたので、日本で不毛な大学生活を送る為に時間と労力と資金を浪費する事無く、高校卒業と同時にバイクレースの世界に飛びこみ、実に充実した10年を過ごした。

不幸にも鈴鹿サーキットでのテスト中のクラッシュで、レースが出来なくなってしまった私だが、
幾つかの偶然が重なって”学ぶ事”の楽しさに気付き、紆余曲折を経て今に至っている訳だ。

 “教育”と言う、学びを妨げるシステムによって、最も頭の柔らかい、脳が可塑性に富んでいる時期に学問に身を投じなかったのは残念ではあるが、流動性知能は年齢と共に衰えるが、過去に獲得された知識や経験に基づく、”結晶化された知能”は、歳を取っても衰えない事は、脳科学的にも、心理学的にも証明されているから、これからも、知的好奇心の赴くまま、ずっと学び続けていたいと思っている。

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2006.03.29

筋トレ中間報告

 先月、体力低下のレベルが自覚出来るレベルに達し、さらに体成文測定で脂肪量の50%近い増加(現役時代との比較)を知り、それ以来、週3回のペースでジム通いを続けてきましたが、ジム通いを始めてから約1ヶ月が過ぎたので、効果の程は如何に?と、また体成分測定をやってみました。

 その結果は・・・。

(ドラクエ風に)
ちゃらららっちゃっちゃちゃ~ん♪

mizzieは レベル が あがった!!

体重 が へった。
(61.2kg → 60.5kg)

骨量 が ふえた
(2.93kg → 2.96kg)

筋肉量 が ふえた
(51.0kg → 51.8kg


体脂肪率 が さがった
(11.9% → 9.6%)

あたらしいじゅもんをおぼえ・・・

られる訳ねぇよ!! Σ( ̄ロ ̄lll)

 って、週3回・1ヶ月でも結構、効果出るものなんですね。
 何でも僕が通ってるジム、4月から新型の体成分測定器を導入するんだそうで、そいつが入ったらまた測ってみようと思ってます。

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2006.03.28

四つの"C"

 競技としてのスポーツにおいて、技術力を向上させる為に必要な3要素として、

 Control       統制・制御・管制力
 (球技では“制球力”になる)  
 Combination   構成・組み合わせ力
 Concentration  集中力

 という、“3つのC”が、選手の技量向上には絶対必要だと言われる。
 個人としての技術力向上には必要な“3つのC”だが、勝つ為にはさらにもう一つ、

 Confidence   自信

 を加えた、“4つのC”が必要となる。

 確かに、自分の技術や技量に自信が無ければ、ベストパフォーマンスを発揮するのは難しいだろう。そしてこの“4つのC”は、スポーツだけでなく、恐らく殆ど全ての事柄に適用出来る様な気がする。

 数日前、職場の先輩に「先輩と同じ事を同じやり方で同じ言葉でやっているのに、僕がやると利用者は受け入れてくれないのですが・・・。」と持ち掛けた際、その先輩介護士はこう応えた。
 「あなた、もっと自分の仕事に自信を持ちなさい。同じ事を自信を持って言われるのと、不安気に言われるのと、利用者にとって、どっちが信頼出来ると思いますか?自信無さ気に話し掛けて来る介護者に、安心して自分を任せられますか?」と言われた。

 確かに、自分が怪我で入院していた時も、ベテラン看護士の仕事には、新人看護士や実習中の看護学生には無い安心感があった。その安心感はきっと、多くの経験を積んだ事から来る、自信によって生み出されていたのだと思う。

 しかしながら、自信”は諸刃の剣でもある。しっかりとした理論的裏打ちの無い自信は、そのまま過信に直結する。
 ここで言う
過信”とは、言い方を変えた自己中心主義以外の何物でもない。
 そうならない為にも、知識と技術の習得に励まなければならないし、経験を積む事も重要だ。

 知識と、技術と、観察力、情報収集能力、処理能力、そして経験。


 そういった土台の上に成り立つ自信”は、強固で安定した、そして利用者に安心感と信頼感を与える物となるだろう。

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2006.03.27

やるじゃんA○A(らぶ♪)

 日本で最後にロー○ンが開店した県。と言うど田舎な高知だが、地勢的にも、眼前に広がる太平洋と、背後にそびえる四国山脈の影響で、交通の便はすこぶる悪い。その為、四国外に出る時は陸路よりも空路が圧倒的に便利なのだが、低所得者層の多さ・厚さもあり、また開港当初は滑走路が短く、旅客機はYS-11ぐらいしか離着陸出来なかったので、羽田と伊丹に全N空とT亜国内航空(後のJAS)が便を持つのみで、その後、福岡、名古屋、広島と路線が開設されたが、現在では、最も利用者の多い伊丹行きは全日Kのみで、羽田便もZ日空寡占状態である。

 時間的に圧倒的優位に立ち、料金も1人で高速道路を運転していくよりも安上がりなので、遠出する時は大抵、私は空路を利用するが、メカニック時代はかなり頻繁に空路を利用していた事もあり、○NAのマイレージクラブに加入してこつこつとマイルを貯め、さらにAN○は国際航空会社連合の『スターアライアンス』に加盟しており、Uナイテッド航空やエアカナD 利用時のマイレージも、A○A のマイレージバンクに貯める事ができる為、シスコ滞在中は、年1回の帰省でも劇的にマイルが増えていった。
 さらに、私は○NA提携のV○SAカードを使っていて、VI○Aカード使用時のボーナスポイントをそのままマイル移行が出来るので、カード社会アメリカで何でもかんでもカードで払っていた私は、年間平均でも2〜30000マイルは稼いでいた。
 その甲斐もあって、’00〜’05の6年間で、高知〜シスコをタダで2往復しているし、その内一回(ただし片道)はビジネスクラスにしたくらいだ。

 帰国して、フライトマイルを稼ぐ機会は無くなったが、何でもかんでもカード払いのクセは染み付いているので、ショッピングマイルとカードポイント移行でのマイルは地道に貯まり続けていて、しかし長期休暇の取り辛い職業故に、折角貯めたマイルも使い道無く期限切れさせて行かざるを得ない運命にあった。AN○がEdyに参加するまでは。

 この電子マネー・システムのお陰で、地道に貯めたマイルをそのまま電子マネーに換金させる事が可能になった♪
 仕事だなんだと忙しい身にとって、フライトマイルはそれ程貯まらなくても、“何でもカード払い”の私は、カードのボーナスポイントで結構マイルが貯まる。しかし、特典航空券分ぐらい貯まる前に、有効期限切れになる事が容易に予想出来た私にとって、貯めたマイルをEdyに移行出来るシステムはとてもありがたい♪

 国際線においても、世界の航空会社は○NAが加盟する“スターアライアンス”と、J○Lが加盟する“ワン・ワールド”という、2つの巨大グループにまとまりつつあるが、私の個人的見解から見ると、スターアライアンスの方が利便性に勝っている。

 その経営戦略は極めて資本主義的で、料金設定や割引便設定にアコギな面もあったAN○だが、国際線への路線展開も比較的好調で、ライバル会社のオウンゴールで国内線1人勝ち状態になっているので、その余力でやっと、A○Aは利用者サービスの充実へとベクトルが向かいはじめた様だ。

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2006.03.26

決して実現させてはいけない

 この間、自転車で買い物に出掛けていてその帰り道、久し振りに『手放し運転』をしてみた。
98年の事故とそれによる脳外傷で平衡感覚にも障害を負っていた私にとっては、少し勇気の必要なチャレンジだったが、過去と比較すれば随分衰えたとは言え、私のバランス感覚はかなり回復して来ている。と言った実感があった。
 僕の運動神経はかなり鈍いが、バランス感覚だけは常人よりも優れていた自信がある。例えば、自転車の手放し運転なら右折も左折も自由自在で、信号につかまらない限り果てしなく乗り続ける自信があったくらいだ。
 そのバランス感覚を失っていたから、バイクを避けていたのもあったのだが、それがかなり回復している事を知り、益々バイクに乗りたくなってきた。

 で、自分が乗るとしたらどんなバイクがいいか、少し考えてみた。
 条件として、

 1)操縦性と旋回性能がいい事。

 2)加速が「スッコーン!!」って突き抜けるようなヤツ。

 3)んで、経済性がいい事。

 経済的観点から、アプリリアとドゥカティは対象外。(めっちゃ魅力的だけど・・・)
 排気量250cc以上は車検があって税金も高いからパス。
 250cc以下で加速がいい事。って事で、もう絶対に2スト。
 操縦性と旋回性がいい。って事はレーサーレプリカ。

 候補として残ったのがスズキのRGVとヤマハのTZR。
(どちらも既に生産中止)
 ん?まてよ。TZRは確か・・・。

 レース専用車のTZ250(10年くらい前のヤツ)と、共通部品がかなりあるではないか!!
 確かフレームは共通だった筈だから、もうエンジンを載せ変えちゃおう。
 さぁ、80馬力オーバーのすぅぱぁTZRの誕生だ。
 TZは発電機能が点火に回す分しか無いから、点火系と灯火系の配線を分離して、ライトとかウインカーとかはバッテリー電源で走行毎充電。外装はTZRだからミラーもライトもウィンカーもナンバーもあるし、エンジン載せ換えだからナンバーも公認のTZRで取れるし、車検が無いから陸運事務所に登録後エンジンを載せ換え。(もちろんイリーガル)

 でもちょっとまった。

 レーサーTZ250は混合給油(エンジン潤滑に必要なオイルをガソリンに混ぜておく)だから、ガス欠したらアウトだ。しかも96年以前型はアブガス(航空機用ガソリン)仕様なので、高知では航空機用ガソリンは高知空港内スタンド以外での入手が不可だ。
 しかも、レース用だからアイドリングが無い。信号待ち毎に空ぶかしをするmizzie’s TZR。これはかなり苦しい。
 さらにレース用バイクは全てが繊細なので、気圧が10ヘクトパスカル以上変わったら、ガソリンと空気の比率を調整をしないとエンジンが壊れる。
 始動は押しがけ式。しかもエンジン冷寒時に暖気運転無しで走っても、エンジンが壊れる。

 もしこのバイクを現実化させるとこうなる。

 日曜、朝6時。
 静まり返った高知の街で、TZエンジンのTZR250を押しがけするmizzie。
 
たったったった・・・パァン!!パパパパ・・・。

 早朝の平和な街に突然響き渡る、レーシングマシンの乾いた排気音。スロットル3500rpm固定で、水温が35℃になるのを待つ。そして水温計が35℃を示すと共に、スロットルをあおってキャブレター・セッティング。

パパパパパパパ(連続約5分)
パイーン!!パイーン!!

 そうやって8000rpm付近のアクセルレスポンスで、中速域のキャブセッティング確認。最後に水温が60℃を超えた辺りでアクセル全開固定。13500rpm辺りまでエンジンを回して高速域の確認。

パパパイーン、パパパイーン、


パパパパプワーーン!!!


 私の記憶が正しければ、レース用マシンの音量は規則で9000rpmで105db以下と規定されている。で、13500rpm位まで回すと、その倍くらいはやかましい。
 そんなバイクを私有したら、たちどころに近所から追い出されてしまうだろう・・・。

 トドメに、レース用エンジンは最低でも1時間走行毎に、エンジン各部を点検しないとアブナイ。ピストン(1個7000円くらい)は3時間以上は使えないし、クランクシャフト(1本15万円くらい)も30時間が使用限界だ。通勤にでも使おうものなら、毎月車検に出すよりも維持費が掛るぞ。

 う〜ん・・・。すぅぱぁTZR計画、早くも断念。

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2006.03.25

注意集中力欠損

夜勤で更新が出来なくて、連続交信記録が途絶えてしまった・・・。
ってコトで、夜勤にも関連したお話を少し。


 ある平日の昼下がり。

 その日は夜勤になっていたので、出勤前に近所のスーパーマーケットへと買い物に出掛けた。

 買わなければいけない商品を頭の中で反芻しながら、しかし現場での多様な商品群に、その場でカテゴリーは同じだけど違う商品を、値段と(サイフと)相談しながら選び、スーパーの買い物カゴへと放り込んでレジに向かった。

 正午を少し過ぎた時間帯、スーパーは繁忙帯からは少しズレるので、客は少ない。だが、主婦でごった返す夕方とは違い、客層は多様だ。

 主婦、学生、昼休み中らしき会社員、僕のような変則勤務であろうと思われる人、育児休暇中?乳児を連れた父親、そして何か素性不明な人。そんな人達に混じって商品を選び終え、一番出口に近い位置のレジに並んだ。

 レジ横の商品や、ボードに貼られた告知をぼんやりと眺めながら、清算を済ませて金を払い、そのまま店を出て家路に着いた。帰り道、その日の夜勤業務でこなさなければならない事を頭の中で考えながら、半分ボーゼン(夜勤日は昼まで寝ているので起床直後でもあったので)としたまま歩き、気が付けば家に着いていた。

 玄関を開けて家の中に入り、そこで突然、自分がとんでもない事をしでかしている事に気付いた。

スーパーの買い物カゴ持って帰って来ちゃった!!

 清算を済ませた僕は、レジで商品を受け取った後にカゴから袋へと商品を移し変える事をせずに、そのまま店を出てしまい、さらにそれに気付く事無く家まで帰って来てしまったのだ。

 よく晴れた平日の昼間、考え事をしながらボーゼンとした顔で、商品を満載したスーパーの買い物カゴを片手に歩くmizzie34歳。

 その姿は、さぞや異様だった事だろう。

 しかしながら、平日昼間に、決して少なくない人とすれ違った僕だが、それを気に止める人は皆無だった。
 これで清算を済ませていなかったら、めちゃくちゃに堂々とした万引きになっただろう。

 その後、空の買い物カゴをスーパーに返しに行く時も、それに目を留める人は誰もいなかった。スーパーの店員でさえも。

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2006.03.23

知的な女性

 モーニング娘。が出てきた辺りから既にその傾向はあったが、日本の多数派に好まれる女性像と言う物が、どんどん低年齢化している。小学生デビューなんてのもあるくらいで、今や中学生は完全に商品化されてしまった感がある。

 確かに、社会的・文化的に高度に洗練された日本の女の子は、世界中どこに出しても通用する。って程度には、外見は可愛い。でも、マスコミでもてはやされている女の子達は、僕にとっては何だかちょっと物足りない。彼女達は確かにカワイイけれど、どこかあどけなくて幼くて、汚い言い方をすればバカっぽい。知性や意志力を感じさせない。その中にはもちろん、本物のバカも混じってはいるが、明らかにそれを演じているとしか思えないようなタレントもいて、それは、そういった女性に対する、多数派日本人男性の強固なニーズがある。という事なのだろう。

 全く情けない話だ。

 人は、自分に無い物を求める傾向があるが、こと男女間に関して言えば、圧倒的に器の大きい相手と、器の小さい側が対等に渡り合う事はとても難しい。大きい側にとっては物足りないし、小さい側にとっては引け目を感じ続ける事になるからだと思う。そして男って生き物はバカだから、実力が無くても支配欲だけは誇示したがる。そんなバカな男達にとって、知的に洗練され、自意識が確立された大人の女性と対等に渡り合う事は出来ないし、彼女達と対等に渡り合えるように己を高めようなんて絶対にやらない。だから、彼等は自分でもハンドル出来そうな、あどけなさや幼児性を残した女性に走るのだろう。

 自分を磨き続ける女性達についていけなくなった、バカな多数派日本男子達は、自分に合った女性を性的嗜好の対象にする事にしかそのベクトルが向かわず、そしてそれに商業主義が結びつき、結果、国中がロリコン化してしまう結果になった。(そして、世の親達にとっては不安の種が増えた)

 女性の晩婚化と少子高齢化を、女性の地位向上と社会進出とに関連付けて読み解こうと試みる層がいて、それはある面では事実なのだが、多数派男性の低俗化と低脳化も、そして彼等をターゲットとして利潤追求を求める市場経済システムそれ自体が、その問題を増長させているようにも感じる。

 数年前、外国のある若くて美しい新人女優がインタビューで、「尊敬する人物は誰ですか?」と問われ、何の躊躇も無く「チェ・ゲバラです。」と即答していたそうだが、そんな答えをさらりと返す知的な美人は、多数派日本男子には絶対に受け入れられないだろう。

 『チェ・ゲバラ伝』(面白いです)を読みながらそんな事を考えていた、今日のmizzieでした。

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2006.03.22

使われなかった人生

 生きていると誰でも、必ず、人生の転換点・分岐点に出くわす。それが人生の転換点だと気付かないままに進んでしまう・舵を切ってしまう事もあれば、それが自分の人生における分岐点である事を深く自覚し、散々悩んだ末に、決めた方向へと舵を切る事もある。
 生まれてから35年になる私にももちろん、これまでに何度かの転換点・分岐点があり、それの選択次第では、今とは全く異なる人生を歩んでいただろうとも思うが、そしてその中には、もしかしたら違う選択肢を選んでいた方が、客観的には幸せな人生だったかもしれない。という分岐点もあったが、それらはもう、私にとっては『使われなかった人生』でしかない。

 35年間、本当に色んな事があったけれど、私は多分、平均的な同世代の日本人男性よりは多様な物事を経験してきたと思う。そうやって色んな事を経験しながら、失敗したり傷付いたり損ねられたりもしたけれど、今の自分の事は結構気に入ってもいる。

 「これまで色々あったし、あの時ああしておけば、今よりももっと上手くいったかもしれないけれど、まぁいっか♪」

 失敗や挫折ばっかりの35年だけど、そこら辺の気風の良さはきっと、全ての選択を自分の意志で行ってきたからだと思う。
 もちろん、悩んだり迷ったりした事も、分岐点の数だけあったけれど、何か人生上の決断に迫られた時、僕はいつも、最後には自分で判断をしてきた。
 (僕は本当に信頼している人にしか、自分の内面を語らないけれど)他人に助言を求めたり相談を持ち掛けたりする事もあったけれど、それすら鵜呑みにする事は皆無で、常に、最終判断は自分でやってきた。

 いじめられっ子だった小学生の頃、こっちが泣いても誰も優しくなんかしてくれないし、それどころかいじめてる連中は、こっちが泣いているのを見て逆に喜んでいるくらいだった。
 レースが出来なくなった自分が受け入れられなくて、死ぬ事しか考えられないくらいの欝に悩んでいた頃も、家族は暖かく見守っていてくれたけれど、それ以外(除くレース仲間)の人は誰も助けては、手を差し伸べてなんかくれなかった。レーシングライダー。という価値が無くなった事で、待遇の手のひら返しを食らった事もあるくらいだ。

 そういった経験を通して、私は一つの人生訓を得た。それは、

“自分の事は、自分で助けるしかない”

 という残酷な現実である。
 さらに、人生上の分岐点に立った時、その選択を他人に委ねてしまっても、その他人にとってはこっちの人生なんて所詮、他人事に過ぎないのだ。
 そいつは決して責任なんか取れないし、その責任の重さを考えたら、恐ろしくて他人の人生選択を決定してしまう事なんか絶対に出来ない。

 バカには責任担当能力が無いから、そしてバカなら責任の事を考えないから、他人に対して無責任な人生選択決定が出来る。だから、そんな助言には決して耳を貸してはいけない。

 だから私はいつも、自分で考えて、自分で悩んで、自分で情報を集めて、そして自分で決断を下してきた。そういう生き方は確かに疲れるしハードだけれど、自分で決めた事だから、その結果がどうであれ、自分で納得が出来る。

 あの時、もう一方の選択肢を選んでいたら、僕がなりたくてもなれなかった2つ、“husband”と“father”の両方になれたんだろうけれど、それはもう、今となっては私にとっての“使われなかった人生”でしかない。

 失敗や間違いの選択もあったけれど、全部自分で決めた事だから、自分ではそれに納得している。

 そして、それらの決断の集大成である今を、結構気に入ってもいる。

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2006.03.21

趣味は勉強です 〜語学の愉しみ編〜

 永住資格を得て渡米したものの、現代アメリカの現実に絶望して帰国した私だが、帰国後も意識的に英語に触れ続けるようにはしている。TVで放映される2ヶ国語対応の映画やTV番組を、原語&字幕無しで見たり・聴いたり、洋書を読んだりと言った類の、実にマイペースでのんびりとしたモノだ。僕にとっての語学は、必要に駆られて必死になっている訳でもなく、専門としている訳でもないのだから、趣味としてはそれで充分だと思う。

 で、そんな“のんびり・ゆっくり”、マイペースで進めている英語だが、時々、「あぁ、語学やってて良かった♪」って思える瞬間が訪れる。

 その日、僕はいつものようにトレーニングジムに行き、トレッドミルを歩きながら、持参したMDで音楽を聴いていた。その時は鈴木祥子がカヴァーする、Patti Smithの「Frederick」を聴いていたが、訳詩を意識せずに祥子さんが歌う英語詞を頭の中で追っていたその時、そのフレーズの持つ情景、情感が頭の中で、まるで突然、海中から沈没船が浮上してくるかのように浮かび上がり、その瞬間にはちょっとした衝撃と、「おぉっ!!そうだったのかっ!!」と言った種類の感動があった。
 直後「あれ?ここは確か訳詩では・・・」って記憶を探ると確かに、英語詞を日本語に訳せばそのフレーズになるのだが、その単語が持つ、日本語では表現しきれないニュアンスや、前後の言葉との組み合わせによって醸し出される情感・熱感は、ある程度の語彙力やその言語に対する理解力が無いと、読み取るのはとても難しいと思う。

 その言語が持つ、独特の雰囲気や微妙な感覚の差。それが読み取れるようになる事は、語学の愉しみの一つであり、そして一度その愉しみを知ってしまうと、益々その言語に対する知的好奇心や探究心が増す事になる。

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2006.03.20

趣味は勉強です 〜ステップアップ講座編〜

 昨年の12月から始めた「ホームヘルパー1級講習」だが、実技講習も佳境に入り、介護については全く無知な人も対象に含む為ファンダメンタルな事が講習の殆どを占める2級講習とは違って、2級を経ていないと受講できない1級講習では、あるレベル以上の知識を有する介護職者を対象としているので、そこで教わる内容もかなりプラクティカルな物が占める事になる。

 今すぐでは無いとは言え、長期的にはホームヘルパーと言う資格が無くなる事は既に政府内で決定しており、また、会社や上司から勧められて受講している訳でもない私は、純粋に1級受講を自分への投資と思ってやっているのだが、自分が専門として関わっている分野だとは言え、いやむしろ専門分野だからこそ、より深い知識と技術と理論を学ぶ事は楽しいし、それを楽しみながら、まるで趣味に興じるかのようにやっているのは事実だ。介護技術に関しても、自分の中で分化され、自動化されてしまった事柄について、それの理由や原因、問題点等を知る時、そこには「目からウロコ」的な感慨があるようで、その度に他の受講者から、「mizzieさん、目からウロコって顔してますよ!」と言われていたりもする。

 介護職者である私にとって、介護について学ぶ事は「専門としてではなく」と言う、趣味の定義からは外れるのかもしれないが、学ぶ事自体を楽しんでいる私にとって、それに趣味と同じスタンスで取り掛かっているのも事実ではある。

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2006.03.19

Efficiency or Meticulousness?



Efficiency 【名詞】 効率(能率)のよさ、有効性
Meticulousness 【名詞】 小心な、きちょうめんな
(研究社英和辞典より)

 職業として、プロフェッショナルとして介護に関わる時、志を持ってこの職業を選んだ者は誰もが必ず、矛盾するこの二つを両立させなければならない。と言う現実に直面する。
 ある時はとまどい、またある時は傷付き、そしてまたある時は驚き、そこに程度の差があるとは言え、恐らく殆どの介護職者は皆、その“理想”と“現実”の狭間で揺れ続けるのだと思う。そしてある者は揺れながら角が取れて丸くなって、現実に流されながら“日々の業務をこなす”介護へと堕ちて行き、またある者は、その振幅に耐え切れず、破綻して燃え尽きる。

 “介護福祉”という現場で、お金をもらってサービスを提供する以上、同額で提供するサービスの質に差があってはならない。そして、集団に対してそれをする以上、特定の個人と関わる事を嫌悪したり、逆に特定の個人と関わる比重が他の利用者より重くなってもいけない。これは施設介護でも訪問介護でも原則は同じだ。
 介護保険制度の下では、提供される介護サービスは時間を基準にして料金が支払われるシステムになっている。
 “時間”を基準にしている以上、そこではどうしても、ある程度の“効率性”が求められる事になる。介護福祉の理想は“利用者中心”と“利用者満足”だが、自立心が強く、介護者に対して協力的は利用者と、依存心が強く、何でも自分の思い通りにいかないと気が済まない利用者に、同じ時間で同じサービスを提供するのは至難の技だ。この職について6ヶ月目の私など、まだとてもそれが出来るレベルには程遠い。

 しかし、効率と繊細さを完全に両立させるのが不可能だとしても、その二つを物凄い高次元で並列させる事は不可能では無いはずだ。私が個人的に尊敬している先輩介護福祉士が、それを実践しているのだから。
 卒業すれば介護福祉士資格が取得出来る学校が林立する中、その方は実務を積んで国家試験をパスして介護福祉士になられた方で、その実践的で効率的、かつきめ細やかな介護は、一緒に仕事をしていて気持ちが良くなるくらいだ。その熟達した仕事が、その方の技術や経験でなせる技であるのも事実だが、複数の業務を同時進行させ、それらを脳内で各駅停車と特急のように、不等速・不等間隔で処理させているとしか想えない様な、そのプロフェッショナルぶりには、もう完全に脱帽である。
 この“同時進行能力”と言う物は、仕事を詰め込むだけ詰め込む事で磨かれるのだそうで、しかしながら、日々、仕事を詰め込むだけ詰め込まざるを得ない環境にある私は、後送りにした仕事が“放置”になってしまい、そちらに戻る前に先輩達に咎められる。と言う失敗を繰り返しています。

 お金持ち高齢者対象の豪華な施設で、介護保険適用外のサービスを提供しているのではないのだから、そこに“利用者中心”の理想と“業務の効率性”と言う現実の乖離が生じてしまうのは、ある程度は仕方が無いのかもしれない。
 しかし、プロとして介護に関わる以上、決して安易な現実に流される事無く、理想と現実のギャップに躊躇つつ、その不安定さに絶えながら、理想を負い続けて行かなければならないのだと、私は思っている。

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2006.03.18

変える事。変えない事

 これまでの経験が全く役だたない様な環境に飛び込むと、大抵、そこでは物凄い奮闘が必要となる。移民ビザ片手に渡米した時もそうだったし、帰国して介護職に就いている今もそうだ。
 ただ、その中で奮闘を続けていると、いつの間にかそいつをモノにして、その中で適応している自分に出会う事が出来る。
 自分にはそのポテンシャルがあると信じているし、無ければ鍛えて作り上げてやる!くらいの志もある。

 逆に、組織や集団である程度の地位を得て、その状態に満足してふんぞり返っているような奴には絶対になりたくない。
 宮沢賢治の詩で、僕がとても気に入っているのがあって、そこでは

賢治もこう詩っている。

 「・・・・・なぜならおれは
すこしくらゐの仕事が出来て
そいつに腰掛けているやうな
そんな多数をいちばん
いやにおもふのだ(中略)
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮蔑や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ(中略)
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい」
(宮沢賢治;「告別」『春と修羅 第二集』より)

 人間って奴は惨めな生き物だから、ラクをしようとすればトコトン低きへと流れていく。その主体にとってはとても安楽で心地良い状態でもあるそれは、客観的に見るととても醜い状態でもある。“見栄っ張り”で、“外面を気にする”僕は、それが如何に醜いか、その実例を沢山見てきたから、そんな人間には絶対になりたくない。

 だから変える。

 “停滞”とか“安穏”とかの空気を自分の中に感じたら。
 とにかく、一旦その場所・環境の外へ出る。
 そしてそこで何かを得る。
 それはもしかしたら、どうしようもない下らない・無価値な物かもしれないけれど、とにかく『自分の嫌いな自分像』に自分が近付き始めた時、自分が安定し始めた時、僕はそこをぶっ壊したくなる。そこに居たくなくなる。それを変えたくなる。
 だって、居心地が良すぎるから。

 自分にとって馴染みの無い、居心地の良くない場所へ行って、自分を試してみたくなる。自己向上の可能性に挑戦したくなる。

 様々な理由で止むを得ず、『挑戦者』である事を諦めざるを得なかった仲間達がいるから、もし僕が自堕落に流れたとしたら、あの気持ちのいい連中は、きっと僕を軽蔑するだろう。だから、そこに自己向上の可能性が少しでもある限り、それに賭ける姿勢は変えたくない。
 仕事が全てルーティン化した状況で、それらの全てを完全に分化してモノにしてしまえば、毎日の仕事はラクな事この上ない。しかし、そこには自己向上の可能性は0だ。ラクチンだけれど、ゆっくりと腐っていく様な環境にいるくらいなら、居心地が悪くても、タフでハードでも、自己向上の可能性がある場所にいたいと思う。もちろんそんな所にこの歳で飛び込むのはとてもハードだ。そこでのシステムや利点を吸収するまでは苦労の連続で、年下の上司や先輩にこき使われたり、打ちのめされたり落ち込んだりの連続だ。だけど、

 あいつなら、きっともっと上手くやってのけるだろう。あいつなら、これくらいの屈辱なんか何とも思わなかっただろう。


 だから変えない。


 独りで考えて決断して勝負しているけれど、一人で生きている訳じゃないから。

 こっちは、不本意にも挑戦権を捨てざるを・諦めざるを得なかった、そんな仲間達の意志を、遺志を、背負っているんだから。

 泣き言なんか言ってたら、(今はヴァルハラに居るはずの)あいつらに笑われちゃうよ。

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2006.03.17

超回復理論

 レースをやっていた頃、フィジカルトレーニングに関してこれについて知ったのだが、人間の筋肉と言う物は、100%酷使した後に完全休養させると、120%回復、つまり元よりも強化されるらしい。100%酷使のあとに完全休養というのが肝心な所で、完全休養させないと、100%の負荷を掛けられて壊れた組織の再生が間に合わず、トレーニングがハードな割には効果が出ないのだそうだ。で、この“100%酷使”と“完全休養”による、“超回復”を繰り返す(負荷を上げ続ける)事で、筋肉はどんどん強化されていくらしい。

 この“超回復”と言う物は、筋肉以外にも適用出来る様な気がする。経験は無いだろうか?自分の知恵と知識を完全に出し切らないと通用しないような環境に身を置き、そこでしばらく過ごした後に気が付くと、まるでPCのメモリを増設したかのように、自分の処理能力や対処能力が向上したような感覚を覚えた事が。

 この、過去を振り返って今と見比べた時、進歩している自分に気付く。と言うのは結構気持ちがいい。「自分も結構やるじゃないか」と言った種類の、ある種の達成感がそこにはある。僕が安定や安寧を嫌い、ある程度確立された所で変化のチャンスが訪れた時、それまで獲得した全てを捨て、躊躇無くそれを掴み取るのはきっと、そこに新しい進歩の可能性を見ているからだろう。つまり僕は、人生においての“超回復理論”を試している事になる。

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2006.03.16

34歳になって背が伸びた!!

 僕の身長は、168.5cmです。

 もう長い間、僕はそう信じていたし、そう公言し続けてきた。がこれに、
レッドランプがチーカチカ点灯するような出来事が起きた。
 そうだ。背が伸びたのだ。34歳にもなって。

 NHK学園の社会福祉専攻科を受講する事になった私だが、ここも法的には学校法人である以上、入学時の健康診断が義務付けられている。
 過日に、その診断書を書いてもらいに病院に行ったのだが、身長、体重も自己申告ではなく、新たに測らせられてその際、「はい身長・・・169.7cmです。」と告げられた。
 「へ?ひゃくろくじゅきゅうてんなな??」
 一瞬、我が耳を疑ったが、キチンとした測定器具を使って、看護士さんが計ってくれたのだから間違いはなかろう。僕の身長は12mm伸びた。

 昔、レース引退の原因になったクラッシュで入院していた頃、ベッドの上で過ごした6週間合計でも、立ち上がる時間が10時間以下だった影響で、身長が172cmになった事があったが、その時は退院して普通の生活に戻ると、2ヶ月で元の身長に戻っていた。恐らく、寝たきりで脊柱や他の間接軟骨が重力から開放されて緩んだ結果身長が伸び、普通の生活に戻った事で軟骨が元の状態に戻ったので、身長も元に戻ったのだと推測される。
 前回に身長が伸びた時はそういう理論的な説明が出来たのだが、今回の身長延伸については全く説明が出来ない。

 最後に身長を測ったのは‘01の滞米中だが、その日から今日まで、特に身長が伸びる原因になるような事は記憶には無い。

 最近変わった事?

 1)帰国して、職種と生活が変わった。
 2)筋力アップの為に、トレーニングジムに通い始めた。
 3)アイスクリームを毎日食べている。
 4)肉を食べる事が無くなった。

 これくらいかなぁ・・・?

 1)に関して言えば、間接に負担の掛かる仕事になった訳だから、軟骨が圧迫されて逆に身長は低くなりそうなものだ。
 2)も、筋力向上が、身長の伸びる事と関連があるとは思えない。
 3)も、確かにアイスクリームは牛乳を原料に含むけれど、それが骨を成長させ得る程のカルシウムを供給しているとは考えがたい。

 で、4)だ。
 日本でもトップクラスの魚介類が安くて美味しい街に暮らし、政治的にも蓄肉食を避けている私だが、蓄肉に関しては医学博士の宇津多含氏がそのコラムで、「蓄肉は酸性食品であり、その酸を中和する為に骨のカルシウムが使われるので骨が弱くなる為、スポーツ選手には進められない。」と語っていた事もあり、肉食せざるを得ない環境から、肉をタンパク供給源にする必要の無い環境になったのに、カルシウム供給量に変化が無いので、肉の酸を中和する為に回されていたであろうカルシウムが、そのまま骨に供給されたのではなかろうか?

 これらはあくまで僕の推測に過ぎないが、もしかしたら他に何か、身長が伸びる原因がどこかにあるのかもしれない。

 成人がアイスクリームを毎日食べると身長が伸びるとか、
 筋肉量が増えると身長が伸びるとか、
 介護職は身長が伸びる職業だとか。


(ここを読んでいる介護職のあなた。思い当たる例があれば教えて下さいね)

 ちょっと無作為抽出の調査が必要だな、これは・・・。

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2006.03.15

安くて美味しい☆高知のSweets♪

 断言しよう。高知のスイーツはめっちゃくちゃに美味しい。
 海外で開かれたパティシエのコンペで賞を取った店もあるが、その店が他店と比べても遜色が無い。という位、住宅街にある小さなお店や、少し辺鄙な所にある田舎のお店が美味しかったりするので、イオンやデパ地下に出店する大手チェーンのスィーツなんか、何かのついでであろうとも自分で金を払って食べよう。という気が起きないくらいだ。
(注;モロゾフのプディングは対象外とする)

 で、数日前に新しい美味しいスィーツのお店について情報を入手し、仕事が休みだった今日、自宅から20km程の位置にあるそこへ、自転車漕いで出掛けてみた。
 ”Saori Sweets”と言う名の小さなお店で、国道55号線から500m程入った所に位置する、周りを自然に囲まれた小さなお店はこんな感じ。

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 3時過ぎに店へ到着したmizzie、でも6時半閉店だと言うのにケーキは既にほぼ売り切れ状態で、お目当てだった、地酒を使った”大吟醸チーズケーキ”は既に完売。しかしまだ、いくつか美味しそうなケーキが残っていたのでそれらの中から”文旦ピールのクリームチーズタルト”、”吟醸酒ムース”そしてコーヒーを注文。ちなみにこれ(ケーキ2個+コーヒー)で料金は税込み\1134。

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 先ずはコーヒーで喉を潤して・・・。

 って、めっちゃ美味しいやん!このコーヒー!!

 キッチンに目をやると、1杯毎にその度豆を挽いて淹れている。
 挽く、淹れる器具がプロ用なのはもちろんだが、淹れ方も実に丁寧で細やかだ。

 僕は、コーヒーぐらい淹れ方で味に差の出る飲み物は無いと思っているが、カフェでもなんでもない、田舎のケーキ屋さんにしか過ぎないこの小さなお店で、あくまで主役はケーキなのに、決して手抜きしないこの1杯のコーヒーに、この店の実力の片鱗を見た思いだった。

 肝心のケーキだが、僕が個人的に”高知の美味しいお店5店”と決めている店舗群、そのどれと比較しても遜色ない、他県からの客にも自信を持って薦める事の出来る味だった。
 お目当てだった”大吟醸チーズケーキ”が既に完売(作り置きをしないお店なので)で、世界一美味しい(筈だ)”Zanze's Cheese cake”(サンフランシスコにあります)との比較が出来なかったのが残念だが、それは次回のお楽しみとしておく事にしよう。高知市内からだと決して近くでは無いが、片道1時間、自転車漕いで出掛けるだけの価値がある、そんな美味しいケーキとコーヒーが堪能出来るお店だった。

 付け加えておくならば、店名にもなっているオーナーパティシエさん、ちょっと目がハートになっちゃいます。って位に美しい方でした。

 味は文句無しに美味しいこのお店、無添加なのはもちろん、食材は全て地元調達と言う、”地産地消”を地で行っているお店で、大量生産や全国展開が絶対に成り立たないシステムなので、この味が高知限定なのは申し訳なくもある。

 僕がケーキを食べている間にも次々と客が訪れ、席を立つ頃には全てのケーキが売り切れになっていました。


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 で、来た道を自転車で引き返しながら、ふと気が付いた。
 細身過ぎてウェストサイズの合う服が無いので、肥る為に始めたケーキ屋さん巡りなのに、こんなに自転車を漕いでいたら逆にさらに痩せてしまう。
 って事で急遽、帰り道にある”高知の美味しい5店(mizzie's select)”の中の一つにも寄る事にした。

 そのお店も、無添加・無農薬の自然食材使用を売りにしているお店で、高知の”甘いもん好き”には結構知られている”彩花”と言うお店。高知市郊外の住宅地にあるお店はこんな感じ。

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 で、ここでもまた、ケーキ2個と今度は紅茶を注文。

IMG_0147












 ケーキは変わる事無く美味しい。
 しかも安い。こっちもケーキ2個&紅茶で¥1150。
 この店は”彩花”の名前が示す通り、お花屋さんでもあり、また生け花教室でもあったりするそうで、テーブルにさりげなく置かれている切り花とかが、とても美しかったりもします。

IMG_0148


















 キレイでしょ?

 4週8休の我が職場、今は毎週日曜ホームヘルパー1級講習に行っているmizzieですが、タマにはこんな風に”高知の美味いもん食べ歩き”とかで息抜きしています。
 平均所得では東京の半分以下だけど、美味しい水と空気と食べ物が、都市部の人達には信じ難い様な低価格で手軽に入手出来ちゃう土地、高知。
 特にスィーツに関しては、何処に出しても恥ずかしくは無い。ってレベルです。しかもそれらの殆どが1個\300台で、1個\400以上のケーキはめったに無い。
 そりゃ、数打ち大量生産品じゃ勝負にならんわなぁ…。

 安くて美味しい高知のスィーツ。
 高知に来る機会があれば、是非ご堪能あれ。

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2006.03.14

趣味は勉強です。

 この4月から、NHK学園の社会福祉専攻科(通信制)を受講する事にした。2年制のこの過程を修了すると介護福祉士国家試験の受験資格が得られ、学習内容も介護福祉士国家試験に対応したもの(医学一般・家政学・社会福祉概論、等)となっている。
 介護福祉士を自分のキャリア・パスの通過点として設定している私にとって、これは自分自身への投資でもあり、さらに、City College中退になってしまった私の学歴は“高卒”のままだが、これを修了すると高専、または2年制短大卒と同等とみなされるらしいので、その点でも私にとっては有効な投資となる。

 本来、学問とは楽しいものだ。知的好奇心が満たされると言うのは、それだけでも胸躍るものだし、天文学や物理学は未知の分野への好奇心をかきたてるし、心理学、社会学、経済学も、身近で起こる様々な事象の理由や原因が判るので、それだけでも楽しい。
 しかしながら、これは私の周りだけかもしれないが、スクールエイジを過ぎた大人は大抵、「もう勉強なんかしたくない」と言い、これは発言者の学歴が高くなるほどその傾向が強くなる。高学歴者が勉強嫌いなのは、作家の村上龍氏がそのコラムで、「日本の大学生は、最初の2年間をそれまでの受験勉強の反動で遊びまくり、後半の1年半を就職活動に費やすので、彼等は結局何も学ばないまま4年間を過ごす。」と言った類の事を書いていたが、その影響もあるのではないのだろうか?つまり、彼等はいい大学に入る為に物凄い努力をしてきて、しかしそうやって入った大学では何も有用な知識や技術を身に付ける事無く過ごし、学生生活最後の1年半を就職活動で時間と労力を消耗した結果、『学問に投資価値は無い』という結論に達したのではなかろうか?

 私は日本の大学については何も知らないが、City College在学中は、勉強が忙しくて遊んでいる暇など無かったが、大学で学ぶ事は楽しくて楽しくて仕方が無かった記憶がある。もちろん苦手な科目もあったが、その科目の教授が使う課題やリサーチ、論文のテーマ等が、こちらの知的好奇心を刺激するものだったので、「苦しいけど楽しい」と言った感覚があった事を覚えている。私の場合City Collegeは成績不良で放校処分になったのではなく、個人的事情で帰国したので中退になってしまったのだが、アメリカの大学では使い終わった教科書は学校が買い上げてくれるシステムがあるので、履修したクラスのテキストを全て売って帰国したのだが、帰国した今、それを一番後悔しているくらいだ。

 話は少し逸れてしまったが、知る事・学ぶ事、学問とは本来とても楽しいものだ。「人の役に立つ事」がしたくて、帰国後は介護の道に進んだ私だが、介護とそれを取り囲む状況について見聞を広めていく内に、この業界で自分がやりたい事が、おぼろげながらも見えてきた。福祉というフィールドで、『利益を出す』という資本主義の原則に従いながら、公正と公平を追求する。それを実現する為には、これまで学んだ知識や経験の全てが有用になるだろうし、まだまだ学ばなければならない事、学びたい事が沢山ある。
 この2年制過程が終了したら今度は放送大学を受講したいと思っているし、放送大学で学士取得後も、私は学び続けるつもりだ。

 強制される訳でもなく、義務化されているのでもなく、必要だから、知りたいからやっている学問だが、楽しみながらそれをやっている私にとっての学問は、“趣味”とカテゴライズしてもいいのではないか?とも思う。

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2006.03.13

ケチつけ屋は、天国にだってケチを付ける

 このタイトルは、僕の好きなアメリカ小説家の1人、H.D.ソロー氏の作中に出てくるフレーズだ。

 シスコで寿司職人助手をやっていた頃、板前同士のモメ事で、尊敬していた先輩の板前さんが、長老格の板前さんから仕事に無関係な事にまでケチをつけられていた時、ケチつけてる板前さんがいなくなった後に、僕はその先輩板前さんによくこの言葉を言って、ケチそれ自体を笑い飛ばしていた。
 ソローの小説に出てくるくらいだから、アメリカにもそんな『ケチつけ屋』は遠い昔からいたんだろうけれど、日本に帰国して、就職して組織に属してみると、いるいる。ケチつけ屋さんがあちこちに(^^
 言われた通りに仕事をしても、そこに何か“完璧で無い要素”を見つけると、それをキツく口撃してくる。普通の仕事で完璧主義を追い続けると『燃え尽き症候群』になっちゃうけれど、人命を扱う職場に居る以上は、“なあなあ”で仕事をする訳にはいかないので、つつける重箱はマチ針でつついて欲しいのだが、相手の言い分が正しいから余計に、ケチつけられる度に、こちらはメゲてしまうのでした・・・。
 ケチつけ屋さんの中には自分にはとことん甘い人もいる(それもかなり沢山)ので、そーゆーケチつけ屋さんならこちらはうんざりさせられるけれどそれを笑い飛ばす事も出来るんだけれど、幸か不幸か、まだ今の職場ではそのタイプのケチつけ屋さんには出会っていない。(と言う事にしておこう・・・)
 天国にだってケチを付けるようなケチつけ屋さんから、ケチの付け所も無いような仕事が出来るようになりたいものだ。

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2006.03.12

生き方の美学・土佐庶民編

 高知の西部に、四万十川の源流も流れている『窪川町』という町がある。田畑と山林と河川が面積の殆どを占めているような過疎地で、夏の夜に窓を開けていると、カブトムシやクワガタが飛び込んで来る様な、東名阪地区に暮らす人には理解も想像も出来ない様な田舎町だ。

 今日付けの「こども高知新聞」に、その町にある東又小学校という学校で起きた、とてもほのぼのとしたニュースが報じられていた。事の顛末はこうだ。

 ある朝、その小学校の体育館前に一匹のネコがうずくまっていたらしい。
 「なぜこんな所にネコが?」
 と思い、子供達が近付くと、そのネコは小動物用の罠に掛かってしまい、怪我をしてうずくまっていたのだそうだ。
 「子供」というのは、特に女の子達は基本的に優しいので、そのネコを助けようとするが、野良猫であるそのネコは当然逃げてしまい、そのまま数日が経過、体力的に衰弱した所でついに捕まり、そのまま先生が町の獣医に診せたのだそうだ。
 既に罠に掛かった足の指は壊死しており、その部分は切除されたようだが、それ以外の部分は無事だったらしい。で、子供達によって保護された猫だと言う事もあっただろうが、この獣医、その所作によって子供達に、「慈愛」、「高潔」と「清廉」、「無私」を示した。

 学校に迷い込んだ野良猫を保護し、獣医に診せた教師が処置終了後に治療費を払おうとするとこの獣医、その教師に、

 「このネコは野良猫やき、あなたからお金はもらえません。」

 と言って、治療費受け取りを拒否し、1円も受け取らなかったのだそうだ。

 日本のペット産業、ペット1匹に一ヶ月辺りで使われるお金の平均額は、ドル換算で貧困国に住む子供達の一ヶ月辺り生活費の数倍で、獣医も都市部では「儲かる仕事」なのだろうが、町民人口にはカツオも含まれているのではないか?と言うくらいの田舎町窪川では、獣医が決して儲かる仕事では無い事くらいは、容易に想像がつく。
 しかしながらこの獣医師は、自らの技術に対する報酬として正等に受け取る権利のある、治療費受け取りを拒否しただけでなく、身銭を切って(処置に使われる薬品や器具、用具は医師持ちだ)野良猫を助け、子供達に矜持と気位の高さを示し、『生き方の美学』を学ばせた。

 治療費を払おうとした教師は、子供達が野良猫を保護した事によって、「命の尊さ」を子供達に学ばせる機会を得たと思ったのだろうが、そこへさらに、この獣医が「生き方の美学」を身を持って示した。
 傷付いた野良猫を助けようとした子供達は、「強者は弱者を救う事が出来る」という現実と、「命は尊いものである」というシンプルな原則、そして高潔と清廉を貫いて生きる事はかっこいい。という理想を、体験し学ぶ機会を得た。

 勝利至上・格差容認の、「上にいる奴は引き摺り下ろせ・下から来る奴は蹴り落とせ」な競争社会に暮らす都市部の子供達が、信じ難い様な残酷な、醜悪な犯罪の被害者になったり加害者になったりしているその時、高知の子供達は、鮎を友に河で遊び、鳥と共に春を歌い、さらに身近の大人達が示す日々の所作によって、「生き方の美学」を学んでいる。

 マズローの欲求階層論、その上から2段目にある、「自意識欲求」に属する所有欲・支配欲・名誉欲を満たすことを飛び越し、「自己実現」から「自己超越」に向かっているとしか思えない人達が普通に暮らしている土地、高知。
 そりゃあ、県民平均所得で毎年沖縄と最下位争うわなぁ・・・。

 後日談としてこの野良猫、治療後数日間は児童の家で暮らしていたが、体力が回復すると勝手に家を出て野良猫に戻ったらしい。
 飼い猫として平和に安逸に暮らす事よりも、野良猫として生きる事のリスクを引き受けてでも、自由に生きる道を選んだこのネコもまた、土佐っ子精神を宿したネコだった。と言う事なのだろう。


参考記事; 高知新聞・3月12日付朝刊「こども高知新聞」〜わなにかかった野らねこを救出〜 西森綾乃記者 より

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2006.03.11

逆ダイエット

 世の中には、肥満に悩んでいる人が沢山いるらしい。肥満が社会問題化し、体脂肪率230%はありそうなアメリカのおばちゃん達を、日常風景としていた身からすると、日本の平均的な女の子なんて皆、めっちゃくちゃにスリムに見えてしまうのだが、それでも皆さんダイエットには熱心に励んでおられるようで、先月から通い始めたスポーツクラブでも、スリムな女の子達が沢山、エアロビクスに励んでいたりもする。
 僕はそのクラブには筋力アップを目的にして通っているのだが、今、至急に、筋肉量を増やす以外でも体重を増やす必要に迫られている。

 過去記事にも書いたが、僕の愛用していたジーンズが破れて、もう穿けなくなってしまった。

 元々が細身の僕としては、これはひっじょ〜にマズい。
 僕は基本的にジーンズはLevi’s派なのだが、そのLevi’s、僕に合うサイズのジーンズはもう無いのだ。
 過日に破れたジーンズもそうだが、僕はもうずっと、レディスサイズのジーンズを穿いていた(ウェスト64cmです)が、日本仕様のリーバイスとアメリカ仕様のLevi’sは微妙に作りが違っていて、男が穿く事を考えると、日本仕様レディスのリーバイスはとても使い辛い。
 その上、肥満が社会問題化しているアメリカ、僕のサイズのジーンズは’05から製造中止になっている。今穿いている分も、サンフランシスコのLevi’s本店にも在庫は無くて、その近くにある別のジーンズショップで在庫処分品の中からやっと見つけた(15ドルでした)くらいなのだ。

 つまり、僕に合うサイズの、僕のお気に入りシルエットのジーンズはもう、世界中何処にも存在しないのだ。だから、今使っているシスコのジーンズショップで見つけたこれを穿き潰してしまう前に、日本仕様のレディスは使い辛いのでメンズサイズを穿く為にも、ウェストサイズを最低でもあと2つは上げなくてはならない。それか、アメリカまでアメリカ仕様のレディスサイズを買いに行くかだ。

 減量と筋力強化を狙ってジム通いを始めたが、増量と筋力強化に切り替えなくてはならなくなってしまった。

 ちっ♪仕っ方が無いなぁ(^^)
 ☆高知の美味しいケーキ屋さん巡りでもするか☆
 るんるん♪♪

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2006.03.10

乱反射


 この日は、業務が「入所者のリハビリ室への送迎」担当になっていた。
 リハビリを受ける人が少ない曜日でもあったので、全員をリハビリ室へ連れて行った後、通常業務に戻り、リハビリ送迎担当者に割り当てられている業務も問題なく終えた。そして、昼食前にリハビリの終わった方達を部屋へと連れ帰る。自力で車イスからベッドに移る事が可能な方は皆無だが、移動全介助な方もいれば、半介助でも大丈夫な方もいる。効率にだけ的を絞って考えれば、全介助で私が抱え上げてベッドに寝かせてあげればそれでいいのだが、それでは機能回復訓練をしている意味が無いので、一人一人異なる介助度合いを考慮して、可能な限り自力でして頂く。
 この、『一人一人異なる・・・』と言うのが中々に曲者で、例えば言葉掛け一つにしても、ある人は陽気に受け入れてその言葉で励起されるのに、別の人はそれを自虐的に解釈し深く傷付く。介助にしても、ある人は必ず特定の場所を支えてあげなければならないが、別の人はそこに触れられる事をとても嫌がる。業務の流れは効率的・画一的に進められるが、個々人への応対に同じ物は一つとして無い。施設として全員に同じサービスを提供しながら、各個人毎に異なる対応。この辺りが施設介護のややこしさでもあるのだろう。
 通常業務が比較的穏やかに進んだこの日は、特に時間に追われる事も無く、リハビリを終えた人から次々と部屋に連れ帰り、ベッドに寝かせてまたリハビリ室に戻る。というのを繰り返していた。そして、午前のリハビリ予定者最後の方を部屋に連れ戻し、リハビリを終えた方は皆が多少はそうなのだが、この方もリハビリ前とは明らかに異なる、身体機能の変化(回復)を感じさせる動きがあったので、車イスからベッドに戻る時、いつもの様に声掛けをして、しかし何も介助をせずに、しばし様子を見てみた。
 一呼吸置いて、「はい。じゃあ立てってベッドに戻りましょうね。」の声掛けに、この方は自力でフットレストを上げ、車イスから立ち上がり、自分の動きを確かめるようにゆっくりと、しかし介助無しでベッドまで戻られたのだ。
 「あっらー、○×さん全部自分で出来たやいかー!!そこまで出来るがをはじめて見たちやー。僕がここで働き始めてからもどんどん良ぅなりゆうねぇ。」
 僕からのその言葉に、その方は少し照れながら、しかし嬉しそうに返事をされ、その日は一日ニコニコと過ごされていた。

 僕の目指す介護はまるで太陽の様に、誰にでも平等に暖かく。
 しかしその輝きは、各個人毎の症状に、またその進行度・改善度毎に変化して、まるで水面に乱反射する日差しの様に。

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2006.03.09

拘束初体験

 私の職場では、と言うか現在は全ての医療機関、高齢者施設では、患者や入所者に対する身体拘束は禁止されている。統合失調症や中程度以上の認知症で、安全の為には止むを得ない場合でも、原則的には身体拘束をしてはならない。
 それらもあって、私の職場では新人研修の一環として、「身体拘束実体験」というのがあり、今日、僕もそれをする事になった。

 4人部屋の空きベッドに横になり、拘束具で両腕を身体に触れる事が出来ない位置に、しっかりと縛り付けられる。
 ベテラン看護士に拘束してもらっている時に聞いたのだが、精神病院で働いていた事もあるこの方の話では、昔は身体拘束は、特に精神病院では普通に行われていたらしい。確かに、統合失調症で自傷・他傷の危険性がある患者や、高度の認知症で精神余命が尽きてしまったとしか思えないような人で、体中を不随意に掻きむしり続けている場合など、放っておけば誰かが、自分自身が、全身血まみれになりかねないのだから、拘束したくなる時もあったのかもしれない。
 身体拘束についてのレポート提出期限が明日だったので、仕事を終えてからそれをやっていたのだが、最初の数十分は問題が無かったのだが、業務で職員が頻繁に入室してきたり、面会のご家族がいたりする日勤帯と違い、夜勤帯の時間にベッドで1人、身動きが取れない状態でじっとしているのは、やっぱりちょっと寂しい・・・。

 また、動かそうと思っても拘束された紐の可動範囲以上は動かせない上に、その可動範囲が身体に届かないので、それ自体がストレッサー(ストレスの原因)となって、イライラしてくる。こっちは身体拘束体験としてやっているので、「動けない」事を自覚し、そして最初に知らされた時間が過ぎれば、それから開放される事が判っているので耐えられるが、何も知らされずにいきなり身体拘束をされたら、そりゃあ誰だって物凄いストレスを感じるであろう事くらいは、容易に想像が出来る。

 そんな事を考えながら、大部屋で拘束されたままベッドに寝かされていて、一つ気になる事があった。4人部屋であるここには、四肢麻痺・発語無し・生活全介助の方と、寝たきりで認知症がかなり進んだ方、そして比較的自立度の高い、情動面にも全く問題のない方がいるのだが、この、認知症の方が発する独り言がかなりやかましい。
 言っている内容が統合失調症患者の様に脈絡が無く、話があっちに行ったりこっちに飛んだり、時間軸と空間軸がバラバラな事を始終言われているのだが、それは聞いていて気持ちの良いものでは決して無い。

 この部屋にいる、心身の状態が最も良好な方は、リハビリで身体機能も回復途上にあり、御家族もかなり頻繁に面会においでになる事もあって、精神面も良好なのだが、隣のベッドに寝ている人が、訳のわからない事を始終言い続けているこの状態に、正直な所、心配になった。

 身体拘束体験で、身体拘束の問題点だけで無く、多様な症状の患者を一つのユニットで一緒にさせる事の問題点も見つけてしまった。そんな身体拘束体験でした。

 あれは部屋を移してあげないと可愛そうだよなぁ。
 折角元気になって来てるのに・・・。

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2006.03.08

存在証明 

 自分の存在証明ってなんだろう?mizzieがこのブログ上でRecommendしまくっているアーティスト、鈴木祥子さんのウェブサイトで、新譜に関する祥子さん自身のセルフライナーノーツ、

http://syokosuzuki.sakura.ne.jp/2006notes.html

を読んでいて、ふとそんな事を思った。
 98年まで、僕にとっての存在証明はレースをする事、サーキットを10000分の1秒でも速く走る事、走り続ける事だった。あまりにも強く望み続けたそれは、それを失った時、私は自己を維持する事すら出来なくなり、その手で自分自身を破壊しかけた程だった。
 祥子さんのコラムでは、“恋愛”を存在証明にしてしまった祥子さんの祖母の話が綴られていて、そこでは、自分の存在証明でもあった恋愛対象を亡くしてしまった時、その人は現実と向き合う事を止めてしまったようだ。と言った類の事が書かれている。
 “愛”とか、“夢”とか、そう言った物事を存在証明にしてしまう事は、とても危険な事なのかもしれない。それらは往々にして、現実との関わりを誤らせる結果を招きやすいのだと思う。祥子さんがコラムで触れられている様に、また私自身の経験からも。
 今、僕は自分の好きな「人の役に立つ事」を、自分が充実感と達成感を感じられる介護業を、自分の生業として生きているのだが、それは、私にとっての新しい存在証明なのだろうか?

 98年のあの日、鈴鹿サーキットのレーストラック上で失った自分の存在証明。その後私は、自分で自分を壊そうとする程の精神的などん底まで堕ちた後、ぶつかったり、ころんだり、時には突き飛ばされたりしながらここまで生きて来たけれど、それは、レースを無くした後、それに変わる存在証明を探していただけだったのかもしれない。
 約8年間の漂流で、遠くは海の向こう、言葉も文化も違う異国の土地にまでそれを求めたけれど、最後に辿り着いたのは、生まれ育った国の、生まれ育った街で、故郷で暮らす人達の為に働く事だった。

 色んな土地に行って、色んな人に会って、色んな事を知って・学んで、色んな経験をしてきて、全部取り戻したよ。
 ここからは、もうだいじょうぶ。
 もう、ひとりでもいけるよ。
 さよなら。美しくて、少しせつない想い出達。
 また、いつかね。

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2006.03.07

知らぬ間にmedical

 過日の記事でも書いたが、僕は口腔ケアの実技講義を聴講する為に、高知大学医学部キャンパスに行った。医大だから当然、講義を聴いている人は医学部生徒や看護学部生徒が沢山いるのだが、病院関係者も聴講出来たので、他にも医療関係者、それは医師だったり看護士だったり、が沢山来ていた。
 僕は、療養型医療介護施設に勤務しているのでこれを聴講する機会を得たが、他の学生以外での参加者、しかも医大の講義を聴講に来よう。なんていう人達は、基本的に自己啓発意欲の高い方達ばかりなので、講師からの「質問ありますか?」の声に投げ掛けられる質問のハイレベルな事ハイレベルな事。専門用語飛びまくりで、しかもその専門用語が質問の核になるような言葉だったりもするので、何を言おうとしているのかは前後の言葉から推測出来ても、肝心の所がサーパリ理解出来ない・・・。
 手術時における外科と歯科の連携に関して(from医師)
 とか、
 ICUにおける、昏睡状態の患者に対する口腔ケアの実践方法について(from看護士)
 とか、
 およそ、一般市民の日常生活では関わる事の無いような事ばかり。
 『人の役に立つ事がしたい!』から、介護の、福祉の道を選んだ僕だけど、気が付けばいつの間にか、Medicalと関わらざるを得ない現場に進入してしまったようです。医療・看護は確かに、人命を救う仕事なので『人の役に立つ』と言う見地から見れば最高位に位置すると思うのですが、福祉や介護がやりたい僕にとっては、ちょっと踏み込み難い、敷居が高い領域に感じるのも事実です。

 いやホントね、資格取得後も勉強を続ける医師とか、医大の看護学科出た看護士とか、すっごいレベル高いしプロ意識高いし責任重いし仕事ハードだし、そりゃ高い給料貰って下さい。って思いますよ。あんな現場見ちゃうと。

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2006.03.06

自動昇格

 2月に我が職場のエースが退職されたのだが、その後またベテランさんが1人退職され、3月になってさらに、凄腕のベテラン職員さんが辞める事になった。その穴を埋めるべく、家庭の事情で長期休暇を取っていた先輩が復職され、さらに新規で新人さんが入ってきた。(まだまだ入ってくる予定らしい)
 ベテランが複数名抜けて、チームとしての戦力は大幅にダウンしているのだが、復帰してきたベテランさんがめちゃくちゃに仕事の出来る方なので、そのダメージを、組織としては何とか耐えられるレベルで抑えている。
 そして新人さんなのだが、この方も私と同じで、資格を取って最初に就職した所が我が職場なんだそうで、しかし私と違って、フィジカル面でのアドバンテージがある訳では無いので、「体力的にキツい・・・。」といつも洩らしていた。また、この方と一緒に資格を取られた方達に、この方が我が職場の話をすると皆が一様に、その仕事量の多さに驚かれるらしい。
 「キツいです・・・私には続かないと思います・・・。」とか言って自信を無くして落ち込んでいるこの方に、mizzie流Critical thinkingで問題を細分化したり視点を変えたりして、ネガティブに沈んで行こうとするのを引き止めようとしていたのですが、この方、仕事のタフさだけでなく人間関係にも悩んでいるようで、「他人に厳しい」ベテランさんや、おばちゃん達に滅入ってしまっているようでした。
 僕はその他人に厳しい方達も、見方を変えれば正しい事を言っている訳だし、重箱の隅をマチ針で突付く様な厳しい指摘や、ときには罵倒すれすれな言い方をしてくる事にも、「ストレス貯まってるんだろうな・・・新人なら気兼ね無く罵れるし、まぁこちらに非があるのは事実だし、仕方が無いか。」と思っていたのだけれど、その方から見るとそんな僕は、
 「mizzieさん、あんなに酷い事をあそこまでキツい言い方されて、よく耐えられますね。」
 となるらしい。
 アメリカ滞在中はCritical thinkingについても学んでいた僕は、どんな局面でも様々な視点から考えて、そこにユーモアや教訓を見出したり、とにかく色んな方向から考えるクセが染み付いてしまっているので、細分化したそれを受け入れるべきは謙虚に受け入れ、明らかにストレス発散に該当していると判断した事に対しては、心の中で暖かく笑い飛ばし(決して嘲笑うのでは無い)、「柳に風」で気にも止めなかったが、この新人さんはそう思う事が出来ないらしく、言う事は至極まともで非の打ち所も無いんだけれど、とにかく言い方がきつい先輩達が「苦手」だとこぼしていた。

 自分で言うのも何だが、僕は普通以上に人当たりがいいし、物腰も柔らかいし、理にかなった事には従順だしおとなしく、基本的に柔和だ。さらに”モーターサイクルロードレース“なんていう、超・実力至上主義の世界に長くいたので、『年齢や肩書きよりも実力』な思考システムが染み付いているので、年齢・性別・国籍・社会的地位等全く関係無く、それが一体誰であろうが、知識と技術と経験が自分より優れている者に対しては、とにかく謙虚だ。
 また、それがどんな事であろうと一旦頭の中で熟考するので、激しく言ってきた相手に対して即座に激しく言い返す事など皆無だが、その新人さんに言わせると、罵倒すれすれの叱責を受けても愚痴一つ言わずに仕事を進めるだけでなく、(過剰な罵倒の様な)叱責のネガティブ部分を笑い飛ばし、いつでもニコニコと入所者に接している僕が不思議に見えるらしい。
 そんな新人さんの職場での悩み事相談にも乗りながら、また教えられる局面では指導者側に回る事もあったりして、
 「おおっ!これではまるで先輩職員ではないか!!(だからあんたは先輩だっつーの!)」
 なんて思っていたりもしました。
 この新人さんに言わせると、キャリアが数ヶ月程度しか違いが無く、物腰が柔らかい僕はいろんな事が言い易い・訪ね易いのだそうで、「柔和な、優しい先輩」と映っている様です。
 僕は職場の先輩達から、「あたしらの時はこんなモンじゃ無かったよ」と言って、イジメかこれは!?って扱いを受けていましたが、それはきっと、自分がされた仕打ちを新人にする事で、自分の深層心理にあった心的外傷を、昇華させたり受容するのではなく、弱い対象に向ける事で癒そうとする、心理学用語で言う所の「Displacement(置き換え)」をしているのだろうと僕は推測していました。
 恐らくもう長い間、新人から新人へと受け継がれ続けてきたであろう、この負の連鎖。仕事師(@修行ちゅう♪)mizzieが断ち切りましょう!

 新人をシゴキまくって、それに耐えて這い上がってきた奴だけを選ぶのは簡単だ。指導者はただ、新人を千尋の谷へ突き落とすだけでいい。そんな教導なら蟻にだって出来る。

 でも、スポイルさせずに物事を教えるのは難しくもあるんですよね・・・。

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自分探し

 大河ドラマの影響で、“高知は山内一豊の所領”が全国区になっているみたいだけど、地元・高知ではその山内一豊よりも、山内一豊に領地を奪われた形になる長宗我部が好まれる傾向が強い。と言うか、土佐っ子にとって『山内』は“よそ者”であって、土佐の盟主は今でも“長宗我部元親”なのである。豊臣秀吉との戦に破れるまでは、7〜8人いた土佐の地方豪族の1人から、四国を平定するまでに成り上がった戦国の勇将の1人でもあるこの元親、彼の名言とかも地元高知では結構残っているのですが、それらの中で僕が気に入っている言葉が、『一芸に秀でよ。多芸多才に通ずるなかれ』です。

 これは、多芸多才に通じようと色んな事に手を出しても、大抵の人は器用貧乏で終わるだけで、そうなるよりは、例え凡人でも、何か一つをトコトン極めた方が良い。と言う意味の言葉なんだそうだ。

 実際、僕はずっと“一芸に秀でよう”としてきたつもりだ。特に人よりセンスがいい訳でも無く、頭がよい訳でも無く、運動神経がすぐれている訳でもない僕には、『二兎を追って二兎を得る』起用さなんか無いって事は良く自覚していた。

 だから、僕は「やる!」って決めた事は、それだけをトコトンやる。それに繋がらない事は全て切り捨てる。実際、レースをやっていた頃は本当にレースだけだった。同世代の人達が車だ飲み屋だ女だレジャーだスノボだサーフィンだギャンブルだ何だとやっている時、僕はひたすらレースの為に働き、準備し、練習をして、レースに出場していた。
 17歳から28歳になるまでの間、本当にレース以外何もしなかったので、同世代の人達がこの年頃で味わう事の出来る楽しみや快楽の殆どを味わう事が無かったが、その代わり、レース毎(リタイヤした時以外)に、物凄い充実感があった。ブスブスとくすぶりながら炭化していく生き方では無くて、一瞬だけど真っ赤に燃え上がる、そして真っ白に燃え尽きる、そんな激しい生き方だ。

 98年のクラッシュでレースが出来なくなった後、レースの出来ない自分が受け入れられず、自殺を考えた時期もあったが、その後かつてのレース仲間達の助けもあってその状態を乗り切り、
『自分が何者かわかんないけど、とにかく生きてく』
 を経て、なりたい自分を見つけ、紆余曲折を経て今に至っている。

 『モーターサイクルロードレース』何て言う、物凄い強烈なアイデンティティを持っていたものだから、それを突然失った衝撃はそりゃあ物凄かったけれど、その自己喪失状態から立ち直る過程で自分を取り戻す為・新しい自分を見付ける為、
 「あの頃はホント、めちゃくちゃにもがいてたよな。」
 って、過去の自分を振り返った時そう思う。

 僕のレース成績が全然ダメダメだった頃にもいたが、今でも、目的もなくフラフラとしていれば、いつか本当の自分に出会えると勘違いしてる人達は結構いるみたいだけれど、僕の経験から言わせて貰うと、『自分』って言う物は決して出会える物なんかではなくて、今の自分を受け入れるか、今は自分に無いそれを、闘って掴み取るしかない物だ。

 「これが自分の全てだ」と受け入れて、そこで肝を括って生きて行くか、今の自分にはそれが無い事を自覚して、その無い物を闘ってでも奪い取る・掴み取るしかないんだと思う。今あるものを受け入れてそこで肝をくくると言う事は、今ある以上の物を諦める事を意味するし、無い物を闘ってでも掴み取る道はもちろん辛く・険しく、そして、負けた時に全てを失うというリスクを負う。

 レースをやっていた頃も、アメリカで暮らしていた頃も、そして帰国して組織に所属している今も、アツくなっている訳でも無く、絶望している訳でも無く、どこにも引っ掛かりがなくて、洗練されててツルンとしてるだけ。な奴はいる。(レースの世界では極・少数派だったけれど)
 現状に満足しているから、アツくなる事も絶望する事もないのなら、それは既にその状態の自分を受け入れていると言う事になるんだけれど、そうではなく、その現状に不満は言うけれど、じゃあそれから抜け出す為に何かをやっているかというと全然そんな事はなくて、ただ周りを責めたり境遇や自分を嘆いたり悲運を呪ったりするだけで、現状がストレッサー(ストレスの原因)になった時、そのストレッサーを取り除く為にもがき苦しんで来た僕からすれば、
「あんた何やってんの?」である。

 人生って奴は意地悪だから、時には諦めなければいけない事・時があるのは事実だけれど(実際、僕にもレース以外で諦めざるを得なかった事がある)、それは絶望という、そこから這い上がる為の物凄い原動力に結び付く。

 満足してはいないけど、絶望してる訳でも無いんでしょ?
 で、今ある何かを失うリスクなんか負いたくも無いし、現状より悪くなるなんて耐えられないんでしょ?

 だったら、今の「自分」を受け入れて、そこで肝を括って生きて行くしかないんじゃないの?

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2006.03.05

欲求階層論

 心理学の世界では古典的と言われたりもするが、Abraham Maslowアブラハム・マズロー)の提唱したこの『欲求階層論』が、ヘルパー1級講習でも、人間の欲求や動機付けへの解説に利用されていた。
 私はマズローについては、あのスタンフォードでも心理学を教えているという、シティカレッジで大人気だった心理学博士のクラス(楽しいけどハードでした・・・)で学んでいたが、一部の日本人は、マズローの提唱する5段階の欲求について、少し誤解釈しているのではないか?と思った。
 マズローの5段階の欲求説では、下のレベルの欲求が満たされると次の段階へと欲求が移るのだが、それは下から順に、1)
Biological need (生理的欲求)、2) Shelter & safety need (安全欲求)、3) Love & belonging need (愛情と所属欲求)、4) Esteem need (自尊欲求)、5) Self actualization need(自己実現欲求)となっている。私のノートにはこれらについて、1) は水と食べ物。2) は家など暖かさと安全を提供する物。3) は愛するパートナーと共に家庭を持つ事などと定義され、4) は社会の中で他人から認められ、それによって自尊心を満たす事への欲求、最後の5) は自己を高める、又は、唯一の可能性を持つ自己の発見への欲求。となっていた。
 これが”階層論”と言われるのは、これらは欲求の段階が上に行くほど、それに辿り着ける人が少なくなるので、この説明をする時は大抵、ピラミッド型の図と共に示されるので、そう呼ばれるのだそうだ。
 基本的にこれらは段階的に進み、下位の欲求が満たされないと次に進めない。と心理学書などでは説かれているが、上に挙げた教授はいくつかの例と共に、「稀に、段階をスキップして2、3段階上の欲求に辿り着いたり、5) を叶える為に2)や3) が犠牲に、つまり生命を危機に晒す事がある。」とも語られ、マザーテレサやマハトマ・ガンジーが例として挙げられていた。
 教授が例に挙げた2人からも判るように、5) の段階にまで辿り着ける人はとても少ない。

 それとはまた違って、日本で誤解されていると感じたのは、邦訳されると誤解を招き易いのかもしれないが、4) と5) は少し混同されているのではないのかと思う。
 大学での授業では、Self esteem needとSelf actualization needにはbig difference(大きな差)があると学んだが、その例として、4) は物欲・所有欲・名誉欲に結びつき、しかし5) は、社会正義の実現とか、弱者救済とか、精神面の美しさや高貴さへの欲求に結び付く。と教えられた。
 しかしながら日本では、5) が『お金持ちになって豪華な家や車やヨットを所有したり、高い地位について多くの部下から認められる事への欲求』と解釈している人もいるようで、マズローはそれを4) と定義付け、それを超越した者だけが5) に辿り着くと説いたのに、邦訳過程で誤解釈されてしまったようである。

 確かに、原書を読まずに『自己実現欲求』という言葉への説明も無いままに、邦訳版だけを読んだ人が、その人の精神レベルで自己実現を「自分の夢を叶える事」と解釈し、結果、4)と5) が殆ど同じになってしまったのだと思われる。

 もし、そう誤解した人が多数派日本人を占めていたのだとしたら、日本社会はSelf actualizationのレベルにはまだ達していない。
 自尊心を満たす事、物欲・金欲・所有欲・名誉欲にその欲求が傾注されている、心理的・精神的・道徳的には未発達な段階のまま。という事なのだろう。

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2006.03.04

情熱は、人を動かす・情熱は、奇跡を起こす

 過日の記事で、
『相手の気持ちを害さずに、気持ちを届ける事の難しさを考えます。』
 と言う反応を頂いた。確かに、こちらが好意でした・言った・仕向けた事が、相手にとっても良い事なのか、行為者が完全に理解するのは不可能だ。だってそれを受ける側の深層心理、心の最も奥底の、当人以外誰も入る事はおろか近づく事も出来ない領域を、他人が理解する事など不可能なのだから。
 そして、客観的視点から自分を見る事もまた、誰にとっても難しい。特に、それが相手にとって良かれと思ってした事なら余計に。
 極端な例として、主観として“善”だと信じた事が、客観としては“害”になる事が良くある事は、人類の歴史を見るまでも、宗教戦争の例を見るまでも無く、誰にでも理解出来ると思う。

 でも、『思い遣り』を原動力にした行動が、相手にとって完全な害悪になる事はあまりないと思う。もちろん皆無だとは決して言えないが。
 『思い遣り』は、英語では“Compassion”と書く。この単語の“Com-”は、“共に”・とか“全く”とか、複合を意味する接頭辞で、“Passion”は皆も知っている様に、“情熱”である。(古語や廃語として、“殉教”や“受苦”と言った意味もある)
 情熱、それも優しさの方向に働く情熱が集まって、“思い遣り”や“慈しみ”になる。僕はそう考えていますが、相手(行為の享受者)の役に立ちたい、相手の為になりたい、相手を助けたい、そんな情熱が集まって出来るのが、“思い遣り”だと思います。
 自分達の掲げる“正義”の下、価値観や思想・信条の違う相手を屈服させたり、排除したり、改心させる事とは違う、相手を想う気持ちから生まれる心象。それが、


 思い遣り

 それの主体はあくまで行為の受け手であって、行為者では無い。それは見方によっては、それをして感謝されている自分を望んでしている、『利他的利己』と似ているが、それとも少し違う。利他的利己かもしれないが、そこで望んでいるのは、受け手からの感謝ではなく、行為者の自己犠牲で受け手が利益を受ける事。

 もしかしたら、それをされる事で相手は気分を害するのかもしれない。だけど、全体的に見れば、相手にとっては利益になる筈だ。
 理想には届かないのだけれど、何もしないでいるよりはずっとマシなそれを、“でも、もしかしたら・・・”と言った想いを抱えながら、その曖昧さに耐えながら、より良い何かをもとめ続けて行くしかないのでは無いのだろうか?

 もしかしたら、この人にはそれは良くないのかもしれない。だけど、それで助かる人の方が絶対に多い筈だ。だから、曖昧さに耐えながらでも、続けていくしかないと僕は想う。

 今、世界全体がギスギスした暮らしにくい方向に向かっている。

貧困
疾病
偏狭
圧迫
偏見
隷従
専制
略奪
強圧
悪意
支配


 酷すぎる。

 何故かって?強者・特権階級者にとっては、そっちが快適でラクだからさ!

 正義や友愛や理解や共有や共感や協調や授与と言った物事は、かっこいいけど疲れるし、報酬はあっても微々たる物で、大抵は0かマイナスだ。
 ある映画監督(オリバー・ストーンだったと思う)がその作中で主人公に、「生物はその環境で快適に生きる為に進化を遂げてきた。なら、悪人は進化した人類だと思わないか?考えても見ろ、あくせくと働くよりも、そうやって働いた奴から奪い取る方が簡単だしラクだ。面倒臭い話し合いなんかしてるよりも、反対する奴には一発ズドン!とやっちまえば一発でカタが付く。(おぉっ!これではまるで今のアメリカ政府では無いか!!)」と、社会を逆説的に批判する為に語らせていた。
 その、環境で快適に生きる為に進化を遂げてきた私達人類は今、私達自身を滅亡させてしまうほどの力を手に入れた。
 だから、次のステップに進まなければならない。

 自身の快適さを追求しない進化を。

 生きる為に必要な物は全て持っている私達には、その進化を遂げる素質が備わっていると信じている。
 確かに、それでプライドを傷付けられる人もいるかもしれない。だけど、それで喜ぶ人や助かる人はもっともっといるかもしれない。だから、それが完璧では無い事は判っているけれど、とにかく行動を起こそう。
 最初の一歩を踏み出そう。
 今考えられる最もマシなやり方で、それで上手く行かない可能性がある危険性と曖昧さに耐えながら、とにかく理想を追い続けるしかない。
 やじろべえの様に振れ続けながら、id(本能的衝動)に流されず、ego(利己)に走らず、super-ego(超自我、自我を監視する無意識的良心)に辿り着くように、僕等は今、それを自己に求め続ける事の出来るレベルまで辿り着いたんだと思う。

 理想には遠く及ばない。それは常に自覚していなきゃいけない。だけど、このまま何もしないでいたら、全てが取り返しもつかない事になってしまうかもしれない。
 情報も、資本も、権力も、影響力まで、僕らには何一つ無いけれど、とにかく始めよう。“いたわり”と“友愛”を原動力にした、“思い遣り”という情熱の集合体で、弱肉強食のジャングルに変わりつつある、この世界を変えよう。

情熱は、奇跡を起こす。
情熱は、人を動かす。
そして、

愛だけが、僕を、あなたも、そして全てを導く。

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2006.03.03

淀んだ空気を入れ替えよう

 ど・ど田舎な高知では、朝夕時以外では公共交通機関が満席と言う事は珍しいのだが、それでもごく稀に、満席やそれに近い状態になっている時がある。

 こう考えるのは僕だけかもしれないが、公共交通機関における出入り口に近い座席というものは、高齢者、身体機能に障害のある人や妊婦さんの為に存在するのであって、離着陸時のシートベルト着用が国際航空法で義務付けられている定期便の航空機以外では、健康な人は立っているか、出入り口から離れた座席に座るべきだと思っていた。
立っていればダイエットにも役立つし。

 しかしながら、本来ならば何らかのハンディキャップを負った人に使われるべき場所に、何処から見ても健康体な若い連中が固まっているのを時折目にする。ハンディキャッパーが同乗していようがしていまいがおかまいなしに。

 これは、彼等の価値観に『高齢者・障害者・妊婦ごときに席を譲れるか』という価値観があるからでは決して無く、『身体機能が低下and/or喪失した人には席を譲るべきだ』という概念が存在しないからなのだと思う。
 始めからそんな概念が存在しないのだから、それをしようとしない事を責めるのは筋違いだと思う。それをしない若い連中が悪いのでは無く、それを教えなった彼等の親達と、それが『かっこいい事』だと示せなかった、彼等より上の、昭和の戦後生まれ世代である、僕等の責任なんだ。

 もっとも、学歴偏重全盛期に多感な少年期を過ごし、他人を蹴落とし競争社会で勝ち上がることを至上の価値とした時代に育った、高度成長〜バブル世代の多数派にそれを示すのは難しかったとも思うが、それはまた別の話なのでここではあえて触れないでおく。

 とにかく、『ハンディキャッパーを受け入れ、彼等を尊重し護る事はかっこいいんだ』だと言う価値観を、少し遅くなったけれどこれから彼等に示せば、始めればいいんだ。
 現状を嘆いていても、ただ愚痴を言っていても、現実に悲観していても何も始まらない。だから、早速明日から行動に移そう。なんだって始めなければ始まらないし、動かさなきゃ動き出さないんだから。

 って事で、明日から始めるmizzieの『”みっともない今時の若い奴等”を変えよう!簡単3分クッキング作戦』開始だ!!

作戦その1
 『とにかく、公共交通機関を利用する』
 公共交通機関で行ける場所に自家用車を使うのは止めよう。事件は現場で起こるんだ!現場にいなくちゃ始まらない!!
作戦その2
 『空いている座席が優先席以外にもある時は、入り口に近い方の優先席に座ろう』
 この時、本来は優先席に座るべき人がいたら即座に、「あそこにお席が空いていますよ。」と声を掛けてあげよう。手話が使えればなお良し!!(^^)d
作戦その3
 『高齢者、障害者、妊婦、若しくは荷物を沢山抱えた若くは無い人が乗ってきたら、さりげなく、でも立ち居振る舞いを美しく、「こちらへどうぞ♪」と席を譲ろう』
 高齢者に優先席を譲ろうとして、「わしゃまだ年寄りぢゃあない」とか言われたら、爽やかな(ここ重要)な笑顔で、「でも私はあなたよりも若いですよ♪」と言おう。さらに、「年長者を立たせて座っているのは、若輩者の恥です。どうぞ座って下さい」と続けよう。私の個人的経験から言わせて貰うと、ここまで言われてそれでも固辞する高齢者にはまだ会った経験は無い。

 優先席と言う物は基本的に、乗降に便利な場所にある。つまり、人目に付き易い場所にあるのだ。

 さりげなく、しかし爽やかに座席を譲るその姿は、否応無しに人目を引くだろう。

 選択問題で、「意図的に、明らかに間違っている答えを選ぶように指示された」集団の中に、何も知らされていない個人を入れた後、その指示されなかった個人以外の全員が間違った選択肢を選んでいた場合、個人は集団に合わせてその明らかに間違った選択肢を選ぶ傾向がある。と言う事は、集団心理学の実験でも証明されている。
 例えば10人の集団のうち9人が間違った選択をした場合、残った一人もそれが間違いだと思いながら、間違った選択肢を選ぶのだそうだ。
 しかし、自分以外の誰か一人が正しい選択をした場合、残された一人も正しい選択肢を選ぶ事も、実験で証明されている。

 明日から私は、この「正しい選択肢を選ぶ最初の一人」になるのだ。

 婚期欲 ぢゃね〜よ!このバカ日本語ソフト!! 根気よく続けていれば必ず、それに続く人が出てくるだろう。そうやって優先席をカッコよく譲る人が増えれば、『譲るべき人が居る時に、優先席に若い健常者が座っている事はダサい事だ』という価値観が醸成されるだろう。

 さぁ、このブログをここまで読んでしまった君も、明日からこの『今時の若い奴等を変えよう大作戦』に参戦するのだ。(^^)
 もう既に、あなたはこの作戦に足を踏み込んでしまっているのだ。

 一緒に世界を変えよう。
 閉塞した社会を、暖かいお天道様に晒そう。
 淀んでしまった空気を入れ替えよう。

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ココログのタイトルと言う物は、一体最高で何文字まで使用できるのだろうか?これについて疑問に感じた私は今、こうしてとても長いタイトルの記事を作成しているのだが、ここまで書いた時点でも全く問題なく書き続けることは出来るのだが、さてこのタイトルの文字数と言う物には限界と言う物が存在するのだろうか?折角こんなバカな事をやっているのだから誰か他人にも見て欲しいと思うので、あのブログ界の女王、眞鍋かをり嬢のブログにTBをさせてもらおうかな?などと考えているのだが、先ほど例のロヒプノールを服用して様々な身体機能と脳機能

 どうやらタイトルの文字数としては、これが限界の様です。

 ※これは後日に書き加えている分ですが、タイトル文作成をロヒプノール服用後に書いていたので、途中から文章が乱れていたので少し訂正を加えました。良かったら他の記事も読んでね♪

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2006.03.02

殺人的な癖

 数日前に、職場からの強い勧めもあり、高知大学医学部で行われた『口腔ケア最新情報』の実技指導講義(医療機関で働く者は聴講が出来た)に行って来た。

 講義は18:00からで、ホームヘルパー1級講習の施設実習で17:00まで公的関係機関見学に行っていた車を持たない僕には、医大のキャンパスまでの交通手段が無く、仕方が無いので母のスクーターを借りてそれへと出掛けた。

 講義それ自体は、とても実践的で判り易く、また介護の現場でも非常に重要だと思われる事が多く語られていて、とても実り多き時間を過ごす事が出来た。

 口腔ケアを介護者がする。と言うケースは基本的に、要介護度のかなり高い人が対象になるのだが、そういった方達の健康維持にとって、口腔ケアが如何に重要な位置を占めるか。と言った事を理論・データの両面から理解させてもらう事が出来た。

 で、話はいきなり変わるのだが、講義を終えてキャンパス内の講義棟を出ると外は既に真っ暗闇で、高知大学医学部は周りには田んぼしか無いような田舎にあるので、帰国後も仕事と勉強に明け暮れて教室と職場と自宅以外、殆ど外出する事の無かった僕は地元での土地勘が依然として失われたままで、キャンパス内で早くも道に迷い(僕は、太陽も月も見えない時は方向感覚を失う)、散々歩き回ってようやく駐輪場に辿り着き、おばちゃんヘルメットを被って大学医学部を後にした。

 正門から右に曲がって大学前の県道に出てすぐ、僕は『これ何かヘン?』といった種類の違和感を覚えていたが、その違和感の原因を数秒後に理解した。

「ここ、”対向車線”やん!!」

僕はついうっかり、アメリカ時代の癖で右折時に小回りしていたのだった!

 アメリカは右側通行なので、渡米直後はそれに慣れずに随分苦労をした物だったが、それに完全に馴染んだ頃に帰国したので、今度は日本のシステムに戸惑っている。

 滞米中は運転時いつも心の中で「右小回り、左大回り」って呟きながら運転していたが、日本では車もバイクもめったに乗らない僕は、日本は「右大回り、左小回り」なのをすっかり忘れ、暗闇の中で方向感覚を失い、つい癖で右折時に、「右小回り」と呟き対向車線に進入してしまったのだった。

 幸い、バイクだったから即座に気付き、バイクを路肩に寄せて事なきを得たが、あれが車だったら・・・と考えるとゾッとする。

 完全に染み付いてしまったこの殺人的癖が、完全に抜けるまでは車の運転を控えた方が良さそうだ。

↓面白かったらクリックしてね♪
http://blog.with2.net/link.php?268283

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2006.03.01

頑張ってるやん高知市!!

 ホームヘルパー1級講習・施設実習過程には、『公的関係機関見学』という物があり、それで数日前、高知市役所・福祉課へ講義を聞きに行って来た。
 講義では、高知市が高齢化対策として行っている地域支援体制と介護予防体制への取り組み、生活保護者対策として行っている諸施策の現状、そして児童福祉の実情が話されたのだが、これらの3つは全て、地方自治体規模で行われている施策であり、財政・法制度の面で様々な制約を受けながら、最前線の職員達はそれなりに頑張っているよな。というのが私の個人的感想だった。
 ただ、性格がちょっとねじくれている僕はこれらの講義の後、講師に、
 「国政の政策、例えば大規模小売店舗法改正によって、郊外型大規模店の出店を容易にした結果、それによって地域の小さな商店街が潰されて・廃れて行く。という現実と、自治体の進める、地域支援体制の確立によって、お年寄りが自分の足で”近場に買い物に行ける”喜びを見出す事で、社会的引きこもりから高齢者を救い出し、寝たきりの防止に役立てよう。と言う。この国政と自治体の施策は矛盾していませんか?」
 と言った質問を投げ掛け、講師を「それは国政レベルの話ですから、現場の私達ではどうにも出来ません・・・。」と言わせて困らせたりもしていた。(ゴメンね)

 んで、「お?結構頑張ってるやん」って思ったのが少子化対策。
 公営・民営保育所への支援策や、朝7:30からの早朝保育、19:30までの延長保育、経済的には第二子以降は保育料全額免除とか、月額\5000だけど児童手当の支給とか、低所得者には月額\41000〜の児童扶養手当支給とか、厳しい財政事情なのに、それなりに良くやっているよな。と思う。
 あと、「これ良いじゃん!」って思ったのが、育児疲れの親達に用意された、
 「子育て短期支援(よ〜するに、育児版ショートステイ)」、
 帰宅が遅い家庭に用意された、
 「トワイライトステイ(ショートステイの夜だけ板)」、
 病気の回復期で集団保育が出来ないが、休暇が取れない親達の為に用意された、
 「健康支援一時預かり事業」
 そして、有償ボランティアによる子供一時預かり制度、
 「こうちファミリーサポート」
 これらの施策によって、保護者の育児に対する負担を減らし、子供を産み・育てる親達を支援する事で少子化を食い止めようと、自治体の最前線レベルでは結構よくやっていると思う。
 県民平均所得では沖縄といつも最下位を争う高知県は、経済的理由から共働きをせざるを得ない家庭がめっちゃくちゃに多く、そう言った共働き家庭へのニーズはあるが、そこに投入する資本が無かったのだが、無い知恵と人材を必死に出し合って、前線では必死で少子化対策をやっている。
 その点に関しては、自治体として評価してあげてもいいのでは?とも思うのだが、いかんせん公務員。折角出したいいアイデアなのに、その施策を告知するのが実に頼りない・・・。全く、土佐人って奴はアピールがヘタクソだ。
 国際政治・国政・地方自治体と、一般人よりは念入りに政治・社会情勢ウォッチをしている私でさえ、これらの施策はこの日の講義で市役所福祉課職員からの説明を受けるまで、全く知らなかったのだから。
 でも施策自体は、本当に良く出来ていると思う。
 後は、それを上手く運用するだけ。

 頑張ってね〜ん♪高知市(^^)



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