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2006.07.21

剥奪

 僕が今の職場に就職した当時から、物凄く受動的で悲観的で、何事に対しても無気力な方がいた。言語でのコミュニケーションが可能な方が殆どいない我が職場において、その方は数少ない、充分な言語的コミュニケーションの確立可能な方だが、とにかく、受動的で無気力だった。

 様々な局面で悲観的になるその方を、少しでも元気付けられないかと接し方に工夫をこらしたりはしてみたが、僕が就職するはるか昔から入所しているその方は、徹底的に受動的で無気力で、外界を遮断するかのような無関心ぶりでもあった。

 また、長期の離職期間を経て、最近復帰してきたベテラン職員の方が別の入所者について、「前はもっとこっちに対しての注文が多かったのに、随分とおとなしくなったね」と言っていた。

 それを聞いて僕に、ある事が浮かんだ。
 滞米中、心理学を学んでいた際に習ったのだが、人間を含めた高等動物は、本来なら得られる物が剥奪された状態が長期間続くと、「無力感」が固定化されてしまう。一旦それが固定化されてしまうと、その状態から簡単に抜け出せる機会が訪れても、何もせずにその状態を受け入れ続ける。

 施設での暮らしにおいては、実に様々な物事が剥奪されている。入所が長期に渡る入所者達はその環境下できっと、生きる事に対しての「無力感」を獲得してしまうのではなかろうか?

 まず、そこでは個人が培ってきた文化と言う物が剥奪される。
 決められた時間で全てが行われ、起床、食事、入浴、就寝、人によっては排泄まで時間管理され、時間的・コスト的・人的資源的理由で、それは集団で一斉に行なわれる。そこに個人の尊厳など入り込む余地は無い。

 次に、その個人が持っていた役割も剥奪される。
 それまで自分が演じていた社会的なポジション、それは親だったり妻だったり夫だったり、管理職だったり技術者だったりといった、「社会に貢献している、ポジティブにコミットしている」と言った類の役割が、「他人の介助なしには生きられない」と言う、ミゼラブルな役割に書き換えられる。

 そして、個性の剥奪だ。
 施設入所者には、食事の献立を決める権利は既に無い。衣服も自分の好きな物を自由に着る事はもう出来ない。そして、最もプライベートな時空間である排泄行動も、大部屋の入所者にとっては周知を強制される行動の一つになってしまう。

 これは数十年前にE.ゴッフマンが指摘した、精神病院入院患者が無力化していく原因と全く同じなのだが、どうやら、そうやって「生きる」事においての極限状態(ある筈のものが無く、あってはいけない物がある状態)に置かれ、それが長期化した入所者達は、生きる事に無力感を抱いてしまうのではなかろうか?

 政府が現在進めている『脱・施設化』は、根源的理由は財政に困窮した政府がコストの掛かる施設介護を減らし、より安価な在宅介護に移行させたいからなのだが、ある程度以上のシビアなケース以外では、財政面以外でも施設介護は既に限界に来ているのではなかろうか?


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