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2007.04.30

病院で死ぬと言う事

僕は医療介護施設に勤めているから、『終末期医療』と言うものにはダイレクトに関わっている事になる。
他所の施設で見きれなくなった人達がやってくるのが、医療介護施設だ。ADLなんかごっそり落ちてるし、入所者の平均要介護度は4.7と言う我が職場では、そこに『人間としての尊厳』を見つける事はとても難しい。

職場でも、『ケアの優先順位』に「本人の希望」よりも「生命の維持」が上位に来るくらいで、正直、いつ死んでもおかしくないって人が殆ど。ホンのちょっとした事ですぐに、『安定期の患者』が、容態が悪化した『重症患者』になってしまう。

介護の理想は『利用者中心主義』で、本人の意思が何よりも尊重されるが、病院ではそうはいかない。本人の意思に任せていたらあっという間に急性期の重症患者に切り替わりかねないのだ。そして殆どの医療従事者にとって『死』は敗北を意味するので、とにかく『生命維持』に重点がおかれる。

しかしながら、一人の介護職者として、こちらからのケアを拒否しているとしか思えない、発語能力はおろか意思表示能力の全てを失った患者と接していると、高度に洗練された医療技術や医薬品、機材によって生命を維持している彼等が、本当に「生きたい」と思って生きているとはとても思えず、ただ、「延期された死」を待たされているだけに思えてしまう時がある。

確かに、家族の希望で『延命治療はしないでくれ』と言われる時もある。本人のリビングウィルとして遺書があり、そこに『延命治療はしないでくれ』とあれば完璧だ。その場合は、無駄な延命治療は行わない。
ただ、そうでなかった場合は、医療従事者にとっての延命治療は「やらなければならないこと」なのだ。今、死んで行こうとしている人がいて、そしてこちらには、それを幾許かでも引き止めておく技術と道具と知識が全て揃っているのだ。

呼吸の停止した患者に、人工呼吸器を挿管する。
救急救命措置を施し、電気ショックを加え、何とかという薬品を注射する。

停まりかけていた心臓が鼓動を再開する。自発呼吸は停止しているが、人口呼吸器と酸素マスクで機械的に酸素が送り込まれる。

でも、それで三途の川の端まで行った高齢者が、回復して元の状態に戻る事はほぼ不可能だ。僕は一度も見た事が無い。
そうやって死期を延期された患者は大抵、夜中に再び容態を悪化させる。そう言った患者には呼吸と脈拍と脳波が常時モニターされているので、臨終の数分前にはそれがはっきりと読み取れる。

最後の時が訪れたその時、モニターで脈が下がるのを確認した看護師達が、バタバタと蘇生措置の為に救命カートを押しながら病室へと走って行く。

三途の川を渡ろうとする人を引きとめようとするのは、医療従事者の職業病なのかもしれない。恐らく、『死』は彼等にとって『敗北』を意味するのだろう。しかし、その人はもうどうやっても死ぬのだ。臨終の時が少しだけ遅くなるだけで、もう何をやってもごく近いうちに死ぬ事は確実なのだ。

そんな人に蘇生措置を施しても、ただ苦しみが延長されるだけで、僕には何も意味が無いように思えて仕方が無い。そりゃ、蘇生措置は医療報酬としてコストが取れるからやらないよりはやったほうが病院経営的にはいいのかもしれない。

だけど、

医療従事者も、家族も、本人も、
誰も納得していない死を、僕等は見つめ続けてていかなければならない。

終末期医療に関わるという事は、そう言う事だ。

 

 

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