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2007.05.16

生きる価値 生きる意味


一人で部屋にいる時、
ななか(仮名)とデートしてる時、
介護関係の講習なんかの帰り道、

僕は時々思う。

(あぁ、俺って本当に幸せな人生送ってるよなぁ・・・)
って。

僕はこの世に生まれてから30数年間も生きてきて、
自分が生き続けることに何の意味も価値も見出せなくなって、
(あぁ、もう死にたい…)
って思った事も一再ならずとあるんだけれど、今は、(おぉ、この人生には確かに、生き続けるだけの価値があった)って思ってる。

人は一体、何の為に生きるのか?
生きる事に、価値や意味はあるのか?
もしあるのならば、それは一体何なのか?
そしてもし無ければ、そこで生き続ける必要はあるのか?

自分が生き続ける理由を見つけられなくなった時、これらの問い掛けは僕の心のどこかから、いつも僕に問い掛けてくる。

少しだけ高みに登って、周りを眺めてみる。
普通の・一般大衆の人達の一生って、

生まれて、遊んで、遊んで、遊んで、学んで、学んで、学んで、遊んで、学んで、学んで、学んで、遊んで、学んで、理想を持って、努力して、努力して、失敗して、拒否して、また努力して、努力して、努力して、失敗して、妥協して、働いて、働いて、働いて、働いて、遊んで、働いて、働いて、働いて、働いて、遊んで、働いて、働いて、恋して、家庭を持って、働いて、働いて、働いて、働いて、遊んで、働いて、働いて、働いて、働いて、遊んで、働いて、働いて、働いて、働いて、遊んで。働いて、働いて、働いて、働いて遊んで、働いて、働いて、働いて、働いて、引退して、遊んで、遊んで、遊んで、死ぬ。

そこに生きる意味とか価値なんてあるのだろうか?
当時の僕には、それを見出す事は出来なかった。

だから僕は、妥協を拒否し続けて生きてきた。自分のイチバンやりたい事を追い続ける人生。
そんな生き方を選ぶと、フツーに生きてる人達が手にする幸せを手にする事は出来ない。でも、僕はそれでいいと思っていた。
フツーに生きていたら手にする事の出来る幸せを得る事を諦めて、『イチバン大好き』な事に全てを捧げる。僕は皆が手にする幸せを掴む事は出来なかったけれど、皆と同じような/似たような人生を歩んでいたら絶対に得られない貴重な知識を得たり経験をして、様々な知識と経験を沢山手にしてきた。

しかしそれは、突然終わりの日を迎える。

自分がイチバンやりたい事の出来るフィールドに居続ける、それは僕の存在理由であり、存在する意味も価値も全てそこにあった。
それを無くした時、僕は自分がここにいる意味を見失った。

その後、様々な紆余曲折を経て、自分の価値を幾許かでも認めてくてる生き場所を見つけて、今はそこにいる。
僕はこの『介護』っていう仕事が結構好きだし、それは決して裕福になれる仕事では無い上に、僕がこの業界でやりたいのは、『制度からこぼれ落ちた、置き去りにされた』人達にhumanity,brotherhood,and compassionを動機として手を差し延べる事だから、それを生業としても経済的には最低レベルの収入しか得られないだろう。

”みんないっしょ”で高学歴を得て、”みんないっしょ”で一般企業に入り、”みんないっしょ”で周りと同じ価値観や行動規範に迎合して過ごし、”みんないっしょ”で恋をして家庭を持つ。と言う人生を選ばなかった僕は、”みんないっしょ”を良しとして、周りを見ながらその規範からはみ出す事無く生きる道を選んだ人達が手にする種類の幸福を手にする事は出来ないだろう。って思っていた。

何かを選ぶと言う事は、その何か以外を得る可能性を放棄すると言う事だ。

自分の『イチバン大好き!』を追求する事を選んだ僕は、それ以外の事を追及するのをその人生のどこかで諦めていたから、妥協して生きている人達がその代わりに得られる”小さなシアワセ”を手にする事は出来ないだろうと思っていた。

 

 

だけど、

 

 

miracle do happened.

その僕を、丸ごと受け入れて受け止めてくれる人に出会ってしまって、そして僕は、恋に落ちた。
僕の事を広く、大きく愛してくれている彼女の事を、僕も深く、強く愛している。
僕がなりたくてもなれなかった最後の二つ、『夫』と『お父さん』に、どうやら僕はなれることが出来そうだ。

 

色んな経験をして、色んな事を得て・学んで、そして同時に色んな事を失ったり壊してしまった人生を送ってきて、生きる意味や価値を見失ってしまう事も何度もあったけれど、

 

今の僕はとて幸せだ。

例え今日、自分の人生に生きる価値を・意味を見失ってしまったとしても、明日何が起こるのか、それは誰にも判らない。

人生には生き続けるだけの価値がある。

 

これだから人生って奴は面白い。

 

今、僕はとても幸せだから、この幸せを皆が感じられるようになればいいのに。とも考える。

大きなレベルだと、この地上から病気も飢えも貧困も暴力も無くなって、先進国で暮らす人も途上国に生きる人も皆が笑って暮らせたらいいのに、って思う。

僕の力はとても小さいから、その為に出来る事なんかごく小さなものしか無いんだけど、それでも、その小さな事を出来る範囲でしていきたいな。って思う。

 

身近なレベルだと、今、僕の職場には様々な後天的疾病や加齢が原因で、誰かの介助無しには、この効率性と利益が最優先される社会では生きていく事がとても難しくなった人達がいる。

国家の名を借りた特権階級達に人生を捧げる事が美徳とされた・強制された時代に生まれ、その特権階級達の失敗の尻拭いをさせられて、物凄い苦労と努力をしながらめちゃくちゃになったこの国を立ち直らせたのに、生産的で効率的な労働者になれなくなったら、まるで使い捨ての手袋みたいに社会の隅に追いやられて忘れられようとしている人達。

この国の主流にいる人達や、この社会の多数を占める人達は、そんな人達がいる事には目を向けようとはしない。
まるでそんなものはどこにも存在しないかのように、自分達の興味がある事だけに目を向けて、美味しくて健康的な料理や、一体感の得られるイベントや、メディアが”これが良い”と煽るアイテムだけに目を向けて日々を暮らしている。国家や支配者階級が大衆をそちらに誘導しようとするのは、この世界が抱えている本当に深刻な問題に、一般大衆が目を向けてしまうと支配者階級の利益が著しく損なわれてしまうからだ。

そうやって、支配者階級が置き去りにして忘れさせようとしている人達は、忘れ去られた・置き去りにされた・この効率優先で利益至上の社会で不要物の烙印を押されてしまった現実に、物凄い負い目を感じながら生きている。

半身麻痺になってしまったら、四肢のうちのどれかを失ってしまったら、自力で立つ事が出来なくなってしまったら、もう、生産的な労働者となって国家の為に利益を挙げられなくなってしまったら、この資本主義の国家では”役立たず”として社会の隅に追いやられる。

そうして”国家にとってのお荷物”にされてしまった人達は、日々、陰鬱になって行く。一日も早くお迎えが来る事を願いながら、哀しみの中で人生の最終幕を演じている。

この、効率優先・利益優先の、従順な消費者で納税者たる者だけが求められる社会では、納税者として、消費者として国家に貢献出来なくなったら、国家によって安楽死させられてしまう時代が来るのかもしれないけれど、

僕は、あの人達が最後の瞬間まで「人生には生きる価値がある」って思えるように、「生きる事には意味がある」って思える社会に、この国がなればいいのに。って思う。

僕は何の為に生きているんだろう?
とか、
もう死んでしまいたい。って思った事もある僕だけど、

今は、生きてて良かった。って思ってる。

そしてこの「生きてて良かった」は、

俺があの自力で歩けなくなったり片麻痺になったり四肢のどれかを失ったりしてしまったじーちゃんばーちゃん達に一番言わせたい言葉だ。

 

僕の力はとても小さくて弱いから、そのために何が出来るのかなんてさっぱりわからないし、出来る事があったとしてもそれはとてもとても小さい事でしかないんだろうけれど、そしてそれは徒労にしか見えないかもしれないけれど、あのV.E.フランクル氏はこうも言っている。

『人生のルールは私達に、どんなことをしても勝つということを求めてはいませんが、決して戦いを放棄しないことは求めているはずです』

 

僕はまだ、諦めてはいないよ。

 

 

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