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2007.12.09

ここは病院

介護保険が謳っている文句に、

『利用者の意思・自己決定権の尊重』
と言うものがある。

利用者がどんなサービスを受けるのか・受けないのか、何をしてもらうのか・してもらわないのか、それらを選ぶ最終権限は全て、利用者本人が握っている。と言うあれだ。

リハビリに行きたくない?

じゃあ、休めばいい。

もっとゆっくりご飯を食べたい?

じゃあ、落ち着いてゆっくり食べたらいい。

オムツを今すぐ換えて欲しい?

じゃあ、今すぐ換えてもらえばいい。

 

これが基本の筈だ。
だけど実際は、この権利が全て保障されている施設を僕は知らない。
NHK学園のスクーリングで、介護概論の講義で教授が話していた、教授がアンケートを取った全老人施設の平均食事時間は15分だったらしい。
ゆっくりご飯が食べたい?
雇用主が雇用者の介護職員に最低賃金を支払う為には、職員一人が対処可能な利用者数の限界ギリギリまで職員数を減らさないと、”介護サービス事業者”としての事業が成り立たない。一人一人の利用者に、ゆったりと食事をしてもらっていたら、利用者一人辺りに職員を一人配置しないとやっていられない。低賃金労力を酷使して人海戦術で介護を行うどこかの国と違って、職員に最低の賃金を保証して介護をやろうと思ったら、サービスの質を低下させるしかないのだ。今、本当に利用者満足を提供出来ている老人施設なんて、富裕層対象の高級老人ホームくらいのものだろう。
(これを認めざるを得ないのは、現職の介護職者としては屈辱でもある・・・)

さらに、僕が所属しているのは介護保険も使える療養病棟。医療介護施設である。業務上のプライオリティーリスト、その最上位にあるのは『利用者の意思尊重』ではなく、『生命維持』なのだ。
特養や老健、GHやデイや訪問ならば、利用者意思の尊重と自己決定権の尊重は考慮されてしかるべきものだろう。そこで過ごす時間は、利用者にとっての”生活の一部・もしくは全て”なのだから。
自分の生活スタイルを決める自由は、全ての国民に与えられている筈だ。

だけど病院は少し異なる。
病院は、病を癒す場所なのだ。そこでは疾病の治癒が最優先される。もちろん患者が希望すれば治療方法を選択する事も出来るのだが、その選択肢は『生命維持』とその上での『実現可能性』から逸脱したものは与えられない。死にたいと望む患者に死を提供する事は、法律上も職業倫理上も、絶対に許されない事なのだ。

だから病院では、疾病の治療に重点の置かれた介護サービスが提供される。業務業務で、患者・利用者の意思を置き去りにした。と言われても何も言い返せないような、看護・介護が提供される。そしてそこでは利用者はほぼ完全に、サービスを受けるだけ。と言う受動的な役割しか与えられていない。
本来、医療とは、治癒を望む者に出来る全ての技術と知識を設備を持って、可能な限りの治癒援助を行う事だった筈だ。
だけど医療介護の世界では、準植物状態となって自己決定権の行使はおろか、意思表示すら出来なくなってしまった利用者を相手に、生命維持にフォーカスされた介護が提供され続ける。そしてそれは心臓が完全に停止するまで続けられる。

そしてそれは、”顧客満足の追求”が大前提だった世界から来た僕の様な人間にとって、いつも・いつまでも、心を痛め、傷付け続ける。

これまでずっと、

そしてきっと、これからもずっと・・・。

 

 

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この国の高齢者福祉を、社会保障システムを、こんな風にしたのは一体誰なんだ?

 

自由民主党と、彼等を選んだ日本人だ。
選挙に行かなかったアナタと、行かせられなかった僕達だ。

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