ロングフル・ライフその4 自死を肯定出来るか?
もう何年か前の話になるが、「人生を肯定した上での明るい自死は望ましいものである」と主張した社会思想研究家が、身体も精神も健康なままで実際に自決した。高知新聞にあった、この方の著書についての解説によるとその方の自決についての考えはこうだ。
人生で誰でも経験出来るような「幸福の極み」を幾度か経験したがゆえに、「自分は確かに生きた」と日々身体で納得しており、今死んだとしてもなんの後悔もなく死ねると確信している人が、実際に自死する事(中略)自決を前にした自分自身の気持ちを点検して、人生に対する未練も、死に対する恐怖もおのずと消滅して(中略)「死ぬべきときには死ねる」と言う確信があれば、気持ちに雄大さと明るさが備わってくるからである。
自殺を否定する僕からすれば、「そこまで人生を肯定出来るのなら、最後の時まで生きればいいじゃないか!」と思うのだが、この社会思想研究家は「痰をのどにつまらせて苦しみのうちに窒息死するというような死の迎え方よりも、チャンスが到来した時に間髪入れずに自決する方が望ましい」と主張している。この思想研究家が念頭に置いているのは、人生の大半を経験し終えた高齢者の自決だと思う。
自殺否定についての記事を書いたりもして、圧倒的なまでに自殺を否定するオイラだけど、圧倒的なまでに自分の人生を肯定し、幸福感に満ちた上で確信を持って自決を選択する実行者を、正しく批判するのはとても難しい。自分の人生を肯定し、確信を持って自決を選択すると言うのは、未来に存在する自分の人生のロングフルライフ化へのリスクを打ち消す、「Anti wrongful-life」となり得るのだ。
医学が進歩して、人は簡単には死ねなくなった。
生物としての機能を殆ど喪失しても、高度化した薬品と医療機器が、その生命をいつまでもいつまでも生かせ続ける。しかしながら、呼吸し栄養摂取し排泄するだけの肉の塊となってしまった人が、その心臓が停止するまでの決して短くない時間に、「人生の意味」を見出す事は、僕にとってはとても難しい。医療介護施設で介護者として働く事で、自分がそんな状態になって、全力で生命維持にフォーカスされたケアを拒否しているとしか思えない高齢者と日常的に接する事で、「人生って、生きるって?」の問い掛けは、常に僕に襲い掛かっている。生きる事を、生かされ続ける事を拒否しているとしか思えない、「アー」とか「ウー」とか叫ぶ以外に意思表示が出来なくなってしまった準植物状態の患者に、生き続ける事への希望を持たせる術を、僕は持っていない。(yet)
「今がとても幸せなのに、将来、不本意な死に方をさせられるのはたまらない。」と言って自決を選んだこの社会思想研究家だが、不本意な終末期の極地でもある(終末期の)寝たきり高齢者と日々接し、その悲惨さ惨めさを間近で見ている僕には、この「自分の人生を肯定し、確信を持っておおらかに、安らかに選択・実行された自決」を批判する言葉を見つけることが出来ない。「貧乏人が長患いなんかして国庫に負担を掛けるような事をされたら困る」として社会保障と医療と福祉を切り捨て続ける自民党政権下では、「確信を持っての自決」を否定するのはさらに難しくなる。
ただ、今これを肯定してしまうという事は、
自民党と厚生労働省の、「貧乏人は国家財政に負担を掛けるな!」を肯定する事にも繋がってしまうので、生命倫理面からではなく政治的に、受け入れる事が出来ないのだが・・・。
人が、「終末期を不幸に満ちて生きるくらいなら、幸福な時に自決した方がいい」なんて選択をする社会というのは、どう考えても間違っている。しかしそんな社会を作った自由民主党を政権の座につけたのは、自民党に投票した日本国民と、選挙に行かなかった日本国民。そして彼等を選挙に行かせられなった僕達だ。
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