平成二十年三月二十二日。午後十時五十三分。
一方通行の狭い生活道路で、一時停止を無視して突っ込んできた若い男の運転する白いスポーツカーに跳ね飛ばされた僕は、コンクリートの門柱に叩きつけられた事による多臓器不全と、肺動脈断裂による失血で、三十七歳の若さでその生涯を閉じる事となった。
「こら伸之!もう10時半だぞ。ジュジュの事はお母さんに任せておいて、お前はもう寝なさい!」
「だってジュジュ、お家に入ってこないんだもん…。」
一人息子の伸之は玄関ポーチに座り込み、家の中に入ろうとしない仔猫に向かって、先程からずっと玄関で、しきりに仔猫の名前を呼んでいる。
「ノブ、おふとんも敷いたんだから、もう早く寝なさい。ジュジュはお母さんが連れ帰ってあげるから。」
寝室の準備を終えた妻の裕未が、伸之を呼びに玄関に降りてきたその時、ジュジュは唐突にポーチから道路へと飛び出した。
「ジュジュ、待って!」
その後を伸之がサンダルを引っ掛けて、たたたっ と軽快な音を響かせながら追い掛けて行く。
「…ったく、誰に似たんだか…。」
伸之がサンダルを履いて出ていってしまったので、僕は仕方なく玄関脇に置かれたポリタンクの側にあった、アシックスのウォーキングシューズに足を突っ込むと、外に出て行った息子と猫の後を追う。大型トラックのクラクションが、けたたましく鳴り響くのが遠くで聞こえた。
「なによあのジャリトラ!デカイからって偉そうにしてんじゃねぇよ!!」
由紀子は大声で悪態をつきながら、
「そこの角を左に曲がって。一通で狭いんだけど、この時間は空いてるからショートカットよ。」
と言って、ハンドルを握る雅史を産業道路から住宅地へと向かわせる。
「ちょっと遅れてるな。良治たちより先に着かなきゃ意味ねぇよ。ちょっとまくるぞ!」
対向車もいない細い生活道路に進入した雅史は、ヘッドライトをハイビームに切り替えてアクセルを床一杯に踏み込む。三菱自動車製2000ccターボエンジンは、その強力な加速力でラジアルタイヤを路面に押し付け、1t近い鉄の塊を強烈に加速させる。
「ちょっと雅史くん、こんな狭い道で危ないわよ。」
バックシートに座っていた昌巳が雅史に注意を促したその時、一時停止の標識が立つ小さな交差点の真ん中で、仔猫を抱いた5歳くらいの子供が立っている姿が、ヘッドライトの光の中で浮かび上がった。
「ノブ!!」
視界にヘッドライトの明かりが見えた僕は、ほとんど反射的に道路に飛び出し、高速でこちらに突っ込んでくる車を横目に見ながら、仔猫を抱いたまま固まっていた伸之を抱き締めた。視界の隅、40m程離れた所にいた白い四輪駆動の小型スポーツカーは、2秒もしなうちに僕等の眼前まで迫ってきて、そしてジュジュを抱いたノブを抱えた僕もろともに、僕をそのフロントグリルで跳ね飛ばした。ノブを抱えたままの僕は、まるでタイガー・ウッズの放つドライバーショットのように、低い弾道で孤を描きながら10m程飛ばされ、向かいにある山下家の門柱に叩きつけられた。
僕は後背部に衝撃と激痛を感じ、呼吸もままならない状態で鋼鉄製の側溝蓋の上にどさりと落ちる。
視界の隅で、裕未が呆然としてこちらを見ているのが見え、僕等を跳ね飛ばした車はさらに7~8m程走ってからやっと止まって、背の高い茶髪男と、生意気そうな顔をした巻き髪の小娘、ショートカットの女学生風、の3人が車から降りて来た。僕が門柱に叩きつけられた後、ジュジュは恐怖でパニックになったようで、どこかに走って視界から消えた。ノブは僕の腕の中で、目を開けたままピクリとも動かない。
「うおっ!!」
ライトの光の中に浮かび上がった幼児を見た雅史は、咄嗟にブレーキペダルを力一杯踏み込んだ。アンチロック・ブレーキシステムが生み出す強力なストッピングパワーは、助手席の由紀子をダッシュボードに叩き付け、後部座席に座っていた昌巳のハンドバックをその後頭部に命中させた。しかし、その強力な制動力も、80km以上の高速で路地裏を走行していた1トンもの鉄の塊を、歩行者に衝突する前に完全制動させる事は出来ず、ドンッと言う鈍い衝撃音の後で、子供を腹に抱えて飛んで行く男の姿が3人の視界に写った。
「痛っぁ~…ったく雅史ぃ、アンタどんな運転してんのよぉ」
ダッシュボードにぶつけた頭をさすりながら、由紀子が腹立たしげに呟く。
「跳ねた、よね。」
昌巳はガタガタと小刻みに声と身体を震わせている。二人に応える事もせず、雅史は(やっちまった。これで俺はもうお終いだ)と、指先をカタカタと震わせながらシートベルトを外し、ドアを開けて外に飛び出した。自分が跳ねた男の所まで駆け寄ると、その男は口から血を流しながら雅史を睨み付けた。すぐに由紀子と雅美もやって来る。
「この…クソガキがぁ…どんな運転しとんじゃ…このボ…。」
直哉はそこまで言った所でまた、口からごぼごぼと大量の血を噴き出し、そのままそこで動かなくなった。
「直哉!ノブ!!」
目の前で夫と息子が跳ね飛ばされるのを見た裕未は、殆ど半狂乱になって道路に飛び出し、そして二人の前で座り込んだ。裕未は、血を吐いて動かなくなった直哉と、目を開けたままピクリとも動かない伸之の前で呆然と立ち尽くす雅史に向かって、
「早く救急車を呼んで!」
と叫ぶのが精一杯だった。裕未からそう言われても何も出来ない雅史の横で、昌巳は携帯電話を取り出し、震える指で119とダイヤルをする。口から血を流して横たわる直哉と、目を開けたまま動かなくなった伸之を前にして、裕未は何も考える事が出来ずその場にへなへなと座り込み、雅史は(賠償は保険でカバーしてもらえるな)などと考え、昌巳は生まれて初めて見た死体に(アタシはどうすればいいの?)と自問自答。由紀子は(この人、もう死んでるわよ。あーあ、きっと事情聴取とかで今夜はツブれちゃうのね。ツイてないわよ全く)と、吐き出す事の出来ない苛立ちを抱え、機嫌悪げな顔をしながら、近付いてくる救急車のサイレンを聞いていた。
ピンポーン
ピンポーン ピンポーン
「…はい。どなたですか?」
インターホン越しに、特徴のある裕未の声が聞こえる。男はカメラ内臓型ドアホンに向かい、「川田雅史です。」とだけ答えた。何の御用ですか?と尋ねる裕未に雅史は、「昨日、平良交通刑務所を出所しました。今日は、直哉さんにお線香を上げさせて欲しくてお伺いしました。」と静かに言う。その雅史に裕未。
「…帰って下さい。」
とだけ応え、その後は雅史が何度ドアホンを押しても何の応答も無く、ドアホンを30分近く押し続けた挙句に、雅史は諦めてその場を立ち去った。ドアホンカメラからの画像で雅史が立ち去ったのを確認した裕未は、その場に座り込み嗚咽を漏らす。
確かに、交通刑務所で2年半服役してきた雅史は、刑事的には罪を償ったのかもしれない。雅史の車に掛けられていた日本生命の自動車保険からも、二億を超える死亡保障が裕未に支払われた。しかし、夜更けの生活道路を制限速度の二倍を超える速度で暴走し、さらに一時停止無視までして、愛しい夫と大切な息子を奪った男が、殺人罪はおろか危険運転致死傷罪ですらなく、単なる過失致死で済まされた事が、どうしても納得のいかない裕未だった。
「…あんたなんか、永遠に刑務所にいればいいのよ…返してよ。あたしの直哉と伸之を返してよ…。」
リビングの飾り棚に置かれた額縁の中で、生まれたばかりの伸之を抱いた直哉が照れ笑いを浮かべている。裕未はその写真に向かい、「直哉ぁ、どうして死んじゃったのよぅ…。」と呟く。裕未の瞳から涙が勝手に溢れてきて、そしてそれはいつまでもいつまでも流れ続けた。
ピンポーン
(また来たの?)
軽い苛立ちを覚えながら、裕未はドアモニターのスイッチを押す。しかしモニター画面に映ったのは礼服を着た雅史ではなく、清楚な水色のワンピースを着た昌巳だった。
「あら?昌巳さんだったのね。ちょっと待って、今ドア開けるから。」
裕未は、急いで涙を拭きながら階段を降りて行き、玄関の鍵を開けて昌巳を迎え入れる。あの日、たまたま雅史の車に同乗していただけなのに、昌巳は直哉と伸之の通夜にも告別式にもきちんと顔を見せ、その後も裕未は拒み続けたと言うのに毎月、月命日には必ず花束とお菓子を持って来る昌巳に、裕未も次第に打ち解け、最初は玄関で挨拶をするだけだった昌巳も、事故から四年が過ぎた今ではリビングで裕未と二人、共に紅茶を飲むまでなっていた。
「裕未さん、また泣いてたんですか?」
「昌巳ちゃん判る?」
「だって裕未さん、頬に思いっきり涙の跡が残ってますよ。」
「実は今日ね、ほんと、今さっきなんだけど、直哉と伸之殺したアイツが来てたのよ。お線香上げさせて下さいって。」
「それで、雅史さんお線香上げていったんですか?」
「まさか!?その場で追い返したわよ!あんな奴にお線香なんか上げさせてやるもんですか!!それにウチは仏教徒じゃなくって神式よ。」
「…そうですか…。」
「昌巳ちゃんは何も気にしなくていいのよ。あなたは単に一緒に乗ってただけなんだから。そりゃアタシも最初はあなたの事も憎んだわよ。だけどあれからもう4年も経ったというのに、あなたは毎月、月命日には必ずウチに来てくれている。直哉を覚えてくれているわ。それだけでもう充分よ。ね、昌巳ちゃん?アナタは目撃者であって加害者ではないの。もう一人の同乗者だった女の子なんか、一度もここに顔見せた事なんか無いのよ。それに、あの時あなたの「時速80kmは出てました」って証言が無かったら、あの男の罪はもっと軽くなって、きっと実刑じゃなくて執行猶予になってたと思うわ。アタシは、直哉と伸之を殺しただけじゃなくって、最初に嘘を言って罪を軽くして逃げようとした、アイツが絶対に許せないの。司法が死刑にしてくれないんなら、アタシがこの手で殺してやりたいくらいよ。」
そう言うと裕未は、ティーカップのアールグレイを少しだけ啜った。裕未が話すのを黙って聞いていた昌巳はしかし、静かにカップをテーブルへ戻し、
「でもあの時、あたしがもっと強く雅史くんに言ってたら、あの人はあんなにスピード出さなかったかもしれない…。アタシ、今でもあの事故の事を夢に見るんです。」
裕未は、昌巳にとってあの事故が、彼女の心に深い傷を与えている事を知っていた。そして、たとえ自分には非が殆どゼロだと知っていても、完全にゼロでは無かったという、ただそれだけの理由で自分を責め続けている事も。あの不幸な事故は二人の命を奪い、そして自分と言う被害者遺族を不幸のどん底に突き落としたけれど、加害者側にいたこの若い女性の心にも深い傷を残し、そして彼女までをも不幸にしたのだと。
しかし、当の加害者はどうだ?二人も殺してたった3年で「贖罪は終わった」と言って刑務所から出てきて、そしてこれからはまた、普通の暮らしに戻るのだ。そりゃ多少は困難もあるかもしれないが、自分から最愛の夫と息子を奪ったアイツは、いつかどこかで、幸せを手に入れて笑顔で暮らしていくかもしれないのだ。自分から何もかもを奪い、見知らぬ他人であるアタシを、こんなにも不幸にしていったというのに。裕未にしてみたら、こんなに不公平な事は無いと、心の底からそう思っていた。
「…国家予算をまるごと損害賠償でもらったって、アイツをこの手で殺したって、アタシの傷は癒えないし直哉も伸之も帰って来ないわ。人を殺したら、その罪はどんな事をしたって償えないの。昔、何とかって政治家が言ってたわよね。「命は地球よりも重い」って。アイツはその重い命を二つも奪ったのよ。そんな罪、どうやって償うって言うのよ?」
裕未はそう言ったまま俯いてしまった。俯いたまま小刻みに震える裕未の顔から涙が滴り落ちるのを、昌巳はただ、黙って見ているしかなかった。
「雅史じゃないか!お前、いつ出て来たんだ?」
閉店間際のレストランバーで、ドアを開けて店に入ってきた男を見たオーナーシェフの大石は、男の顔を見て驚きの声を上げる。「一昨日です」とだけ雅史は言って、カウンター席の一番奥に静かに座った。
「家には帰ったのか?」
「帰りましたけど、親父もお袋も、僕を腫れ物に触るような扱い方か、「そんな物はこの家には無い」って態度でしか接してこないし、決して僕が願うようには扱ってくれないんです。居心地悪過ぎです。」
「そうか…で、ご遺族の所には行ったのか?」
「行ったけど追い返されました。そりゃ、目の前で夫と息子を殺されたんですもの。僕の事、許せる訳なんかないですよね。」雅史はそう言ってすぐに、「何か食わせて下さいよ。お腹ペコペコです僕。」と言って大石の顔を見る。
「ペペロンチーノでいいか?待ってろ。すぐ作ってやるから。」そう言って大石はキッチンへと向き直る。コンロに火を入れて大鍋の湯を沸かしながら、冷蔵庫から片付けていた食材を出してくる。
「でもお前だって、あの事故で全てを失った。そうだろ?将来有望な大学サッカーのエースストライカーが、あの事故で選手生命を絶たれて、何にもなければ最悪でもどこかの学校で監督かコーチにでもなれただろうし、就職ならどこにだって行けただろうに。今じゃ過失致死の前科持ちで、警察照明を求められるような仕事には就けない。多分もう一生、サッカーに関わる事も出来ない。」
「でもきっと、これくらいじゃ二人を殺した罪は償われないんだとあの奥さんは考えてるんだと思いますよ。それに、僕は遺族だけじゃなくて由紀子と昌巳まで巻き添えにしてしまった。由紀子には捨てられちゃったし、昌巳ちゃんも今はどこで何をしてるのかもわからない。大石さん、クアーズかコロナビールあります?」
雅史の言葉に大石は、冷蔵庫からクアーズを出してコップと共に雅史の前にコトリと置き、
「これは俺からのおごりだ。まあ飲めよ。昌巳ちゃんはな、今でも月命日にはご遺族の所に通ってるんだそうだ。お前の分もきっと、昌巳ちゃんが祈ってくれてるよ。あの娘はお前の周りにいた女達みたいな美人じゃあなかったが、少なくとも、お前の周りにいた誰よりも優しい娘だよ。」
「大石さん、昌巳ちゃんの携帯とか判ります?」
「知らんよ。それに、お前は昌巳ちゃんとも会うべきじゃあない。あの事故で傷付いたのは、あの娘だって同じなんだ。もうこれ以上、誰かの古傷に塩を刷り込むような事はするなよ。」
「…そうですか。じゃあ大石さん、由紀子は今どうしてるか知ってます?」
「あの娘か…あの娘の事も、お前は知らない方がきっと幸せだよ。どっちにしても、将来を絶たれたお前の事をあっさりと捨てて行った女だ。もう忘れちまえ。」
「彼女が不幸になってさえいなければ、僕はもうどうでもいいんです。僕はもう、これ以上誰も不幸になんかしたくない。ただそれだけです。」
「ならいいんだ。心配するな。あの娘は今、少なくとも経済的には誰よりも幸福だよ。さて、俺はもう店閉めるぞ。お前もそれ食ったら帰れよ。」
大石はそれだけ言って、窓のカーテンを下ろし始めた。店を片付ける大石をぼんやり眺めながら、雅史はパスタを胃袋に送り込み続けた。
直哉の実家は代々続く天満宮の氏子でもあったので、直哉の家には仏壇は無い。さらに、無神論者だった直哉は神棚すら置かなかったが、直哉が死んだ後は直哉の両親が、小さな神棚と二人の遺影が入った額を、リビングの飾り棚に置いた。裕未は今も、毎朝遺影に手を合わせ、夜は写真の中で笑う直哉に、その日一日の出来事を語り掛ける。結婚してからずっと、夕食を食べながら二人でそうしていた頃のように。
「ねえ直哉。今日ね、直哉と伸之を殺したアイツが来たのよ。アイツ、もう出所してきたみたいなの。直哉を殺して、伸之を殺して、あたしをこんなにも不幸にして、でも、あいつもう贖罪は終わって、明日からはきっとどこかで幸せに暮らすのよ。こんな不公平な事って無いわよね。この国じゃ、交通事故は殺され損って事なのね。」
裕未はブロッコリーとベーコンの卵炒めを口に運びながら、テレビのチャンネルを次々と変えていく。
「昌巳ちゃんも、また今月も来てくれてたわ。二人で一緒に紅茶を飲んだの。あの娘、まだあの事で自分を責めてるのよ。あたし達の事を覚えていてくれるのは嬉しいけど、まだ若いんだし、アタシ、もうあの娘には幸せになって欲しいって思うわ。あの時一緒にいたもう一人の女なんか一度もここに来た事は無いのに、あの娘は毎月ここに来て、きっと自分を責め続けてるのよ。」
写真の中で照れ笑いを浮かべる直哉に語り続けながら、テレビのチャンネルを次々と変えていた裕未だが、ニュースは悲しい事故ばかり、バラエティーは下品なものばかり、ドラマはヘタクソな役者ばかりで、途中で嫌になってスイッチを切った。
「ねえ直哉。笑ってばかりいないで何か言ってよ。」
そう言ってから裕未は食べ終えた食器を片付けて、部屋の掃除をしてから翌朝用に米を研いで炊飯器のタイマー設定をして、朝食の仕込みをしてから、入浴を済ませてフトンに潜り込んだ。そしてその夜、裕未は直哉の夢を見た。
ダイニングテーブルの上には、大きなカレー皿が二つ。ブロッコリーとベーコンの卵炒めが乗った小皿が二つ。今日の夕食の皿が二倍になって、テーブルの上に置かれている。まるで時間が巻き戻ったかのようだ。ただ先程と違うのは、テーブルの向かいでは直哉が、あの懐かしい優しい笑顔を浮かべて座っている事だった。
「それで裕未は、まだアイツを許せないんだ。」
「だって、アイツは直哉と伸之を殺したのよ!許せる訳なんかないじゃない。」
「でも、例えアイツが死んでも、どんなにお金を使っても、僕はもう生き返らない。僕の身体は、この魂を入れる入れ物は、4年前に火葬場で燃やされて、骨は暗い土の下だよ。」
「そうよ。だからアタシはアイツを許せないの。直哉と伸之を殺してあたしを不幸にしたあいつが、罪を償ったって言われて幸せになるなんて許せないのよ。そりゃ、今でも毎月来てくれるあの昌巳って娘には幸せになって欲しいとは思うわよ。だけど、アイツには世界中の不幸が降り注げばいいのに。って本気で思ってるの。それに、直哉は自分と伸之を殺したアイツを許せるの?」
そう言って直哉を見つめる裕未を見ながら、直哉はカレーを乗せたスプーンを口に運び、口にふくんだジャガイモをゆっくりと咀嚼してからそれをごくりと飲み込む。そしてグラスを取って冷たい水を一口飲んでからそのグラスをテーブルに戻すと、裕未の目を優しくみつめながら、ゆっくりとこう言った。
「それはこれからの、彼の生き方次第かな?もちろん僕だって、服役が終わったからって僕等の事なんか忘れてノーテンキに幸せ掴まれたりするのは許せない。アイツは、僕にもう二度と、裕未を抱きしめる事を出来なくさせたんだ。伸之の頭を優しく撫でる事を出来なくさせたんだ。3年かそこら、刑務所に入ったくらいで許してなんかやるものか。だけどね、僕はもう死んでしまったけど、アイツはこの先、数十年は生きていくだろう。現実的に、未来に関わっていくのはアイツなんだ。そしてもし仮に、アイツがその与えられた残りの人生を、マザー・テレサとかマホトマ・ガンジーみたいに、虐げられてる人達とか、卑しめられてる人達とか、苦しんでいる人達とかの為に捧げたとしたら、僕としても彼を許さない訳には行かないと思う。自尊とか自我を超えて、自己実現に身を捧げた人を恨み続けるほどには、僕は狭量には出来ていないよ。」
「でも、パーティーに遅れるからって生活道路を時速80kmで暴走して、一時停止無視して二人も跳ねて殺して、警察に嘘の証言して罪を軽くしようとしたような男が、自己実現に身を捧げるなんて有り得ないわよ。」
「そんな事わかんないよ。人は誰だって変わって行くものだし、変わることが出来るから人なんだ。彼が生きている限り、彼の人間性がブレイクスルーする可能性は可能性として存在している。もちろん、それが無い限り僕はアイツを許さないけどね。」
「じゃあ直哉、アイツを呪い殺してやってよ。アナタが呪い殺したのなら、アタシの気も少しは晴れるわ。」
「申し訳ないけどその希望には応えられない。僕は君を見守っているだけで精一杯なんだ。誰かを呪っている余力なんてもうどこにも無いよ。」
「見守ってるの?」
「もちろんだよ。僕がいなくなった君が幸せになれるその日まで、僕は君の事を見守り続けるつもりだよ。今だって、洗濯物が風で飛ばされないように押さえたり、満員電車でチカンの手を遠ざけたり、君がシチュー鍋を焦がしちゃわないように見張ったり、毎日健気に『縁の下のフェアリー』やってるんだから。」
「ふふ、鍋を見張ってるなんて、ホントにあなたらしいわね。」
裕未はそう言って微笑みながら、カレーを一口ぱくりと食べた。
翌朝、裕未はとても幸せな心地で目を覚ました。昨夜の事が夢である事は判っていたが、それでも許されるのなら、ずっと夢を見続けていたかった。例え夢の中とは言えども直哉に会えた事で、彼と食事を共にし、親しく語り合えた事で、その朝は、裕未にとって何年ぶりかの心地良い目覚めだった。
「さて、と。」
布団から置きだした裕未は、食器乾燥棚に置かれた二人分の食器を食器棚に仕舞った。
二人分?
直哉と二人で食事をしたのは、確かに夢の中の出来事だった。裕未は昨夜、一人で夕食を食べ、掃除をして風呂に入って寝たのだ。二人分の食器があるはずが無い。しかし、食器乾燥棚には間違いなく、二人分の食器が載っていた。
ソファーに腰掛けた昌巳が時計に目をやった時、待ち合わせ時間は既に10分程過ぎていた。ため息をついて昌巳は一杯700円の美味しくないブルーマウンテンを啜り、そしてカップをテーブルに戻す。ファミリーレストランでの待ち合わせを望んだ昌巳に、ホテルのカフェを指定したのは由紀子だった。あの事故の後で雅史と別れた由紀子は、その後すぐにセレブ限定のお見合いパーティーで出会ったとか言う、建設会社社長の長男と結婚し、今は悠々自適のセレブリティな専業主婦になって、主婦仲間とゴージャスなランチに出掛けたり、カルチャースクールに通う日々を送っていた。
「あら昌巳早いわね。もう来てたの?」
由紀子がやってきたのは、約束の時間を17分過ぎてからだった。
「早いわね。じゃないわよ。もう10分以上過ぎてるじゃないの。」
「10分遅れるのはFashionably lateよ。アメリカじゃこれが普通なんだから。」
「ここは日本よ。約束の時間にオンタイムで来るのは常識でしょう?」
「昌巳は相変わらずカタいわね。アタシだって色々忙しいんだから。それで今日は何の話なの?」
「由紀子、雅史くんが出所してきてるの知ってる?あの人出所して先ず最初に、ご遺族の所に行ったらしいんだけど、奥さん、雅史くんを追い返しちゃったそうなのよ。この際だからあたし達3人で行って、雅史くんにも遺影に手を合わさせてあげましょうよ。由紀子だって一度もまだ、ご遺族の所には行ってないんでしょう?」
「ちょっと昌巳、何でアタシがそんな事までしなきゃなんない訳?もうあれは済んだ事でしょう?雅史は刑務所に入って、Jリーガーになれたかもしれない将来を閉ざされて、ご遺族には二億円以上も保険金が払われたんでしょう?もう充分よ。」
「でも、雅史くんは今でもあの人達に謝罪したいって思ってるみたいだし、それにあの奥さん、今も毎日泣いて過ごしてるのよ。その場にいた者の一人として、何かしてあげたいって思うのが普通じゃない?」
「自分の常識が世界の常識みたいな言い方しないで。そう思うのはアナタの自由だけど、それにアタシまで巻き込まないでくれる?仮にアタシがあんた達とあの家に行ったとして、元カレと一緒にいたトコなんて、ダンナに見られでもしたらどうするのよ?アタシは今幸せなの。それを妬んで壊すような事やめてくれる?」
「妬んでなんかいないわ。あたしはただ、雅史くんも出てきたんだし、いい機会だから3人で手を合わせてご冥福を祈って、って思っただけよ。」
「昌巳。そーゆーのをね、『余計なお世話』って言うの。アタシはもう帰るわよ。4時から英会話教室に行かなきゃなんないの。じゃあね。もうそんな用事で電話なんか掛けてこないでね。」
それだけ言って立ち上がると由紀子は、
「待ち合わせココにしてって言ったのアタシだから、ここの勘定はアタシが払っておいいてあげるわ。」
とだけ言うとレシートを掴むと足早にキャッシャーへと向かい、ゴールドカードでスマートに決済を済ませると、あっという間に立ち去っていった。
昨夜から降り出した雨は、一向に止む気配も無く降り続いている。道路脇の用水路を茶色の泥水が流れ、交差点の路面に出来た水溜りを、時折走り去る配達のワゴン車が跳ね飛ばして行く。交差点の角に立つ小さな一軒家の玄関ドアホンの前で、傘をさした雅史は一人で立っていた。家の中では、裕未がモニターに映る雅史の映像をじっと眺めている。
「…もう帰ってください。そんな所にいつまでも立たれたら迷惑です。」