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2008.03.24

(またまた)書いてみた

もう長い事執筆が止まっている『介護物語』だけど、ココに来てくれている皆さんがご想像の通り、ななか姫とのラヴラヴ生活で執筆してる余裕が無い。ってのが執筆中断の最大の理由だ。
ただ構想だけはまとまってきていて、まとまった時間が出来たらじっくりと続きを書きたいとは思っているんだけど、あれを書く時はそれなりに集中して、そして物凄いエネルギーを使って書いているので、長い事”書く事”をやっていなかった僕には中々に大変な作業であろうと言う事は、容易に想像出来る。

それでこの間の夜勤明け、自身へのリハビリの意味も込めて、簡単な短編小説を書いてみた。これくらいのレングスのお話だと、ちょっと時間がある時にささっと書いちゃう事は出来るし、長編をじっくり書く前のウォーミングアップとしては丁度いい。

で、折角書いたんだから、ここに公開してみる事にした。観想とか聞かせて頂けるととっても嬉しいです。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

平成二十年三月二十二日。午後十時五十三分。

一方通行の狭い生活道路で、一時停止を無視して突っ込んできた若い男の運転する白いスポーツカーに跳ね飛ばされた僕は、コンクリートの門柱に叩きつけられた事による多臓器不全と、肺動脈断裂による失血で、三十七歳の若さでその生涯を閉じる事となった。

「こら伸之!もう10時半だぞ。ジュジュの事はお母さんに任せておいて、お前はもう寝なさい!」

「だってジュジュ、お家に入ってこないんだもん…。」

一人息子の伸之は玄関ポーチに座り込み、家の中に入ろうとしない仔猫に向かって、先程からずっと玄関で、しきりに仔猫の名前を呼んでいる。

「ノブ、おふとんも敷いたんだから、もう早く寝なさい。ジュジュはお母さんが連れ帰ってあげるから。」

寝室の準備を終えた妻の裕未が、伸之を呼びに玄関に降りてきたその時、ジュジュは唐突にポーチから道路へと飛び出した。

「ジュジュ、待って!」

その後を伸之がサンダルを引っ掛けて、たたたっ と軽快な音を響かせながら追い掛けて行く。

「…ったく、誰に似たんだか…。」

伸之がサンダルを履いて出ていってしまったので、僕は仕方なく玄関脇に置かれたポリタンクの側にあった、アシックスのウォーキングシューズに足を突っ込むと、外に出て行った息子と猫の後を追う。大型トラックのクラクションが、けたたましく鳴り響くのが遠くで聞こえた。

「なによあのジャリトラ!デカイからって偉そうにしてんじゃねぇよ!!

由紀子は大声で悪態をつきながら、

「そこの角を左に曲がって。一通で狭いんだけど、この時間は空いてるからショートカットよ。」

と言って、ハンドルを握る雅史を産業道路から住宅地へと向かわせる。

「ちょっと遅れてるな。良治たちより先に着かなきゃ意味ねぇよ。ちょっとまくるぞ!」

対向車もいない細い生活道路に進入した雅史は、ヘッドライトをハイビームに切り替えてアクセルを床一杯に踏み込む。三菱自動車製2000ccターボエンジンは、その強力な加速力でラジアルタイヤを路面に押し付け、1t近い鉄の塊を強烈に加速させる。

「ちょっと雅史くん、こんな狭い道で危ないわよ。」

バックシートに座っていた昌巳が雅史に注意を促したその時、一時停止の標識が立つ小さな交差点の真ん中で、仔猫を抱いた5歳くらいの子供が立っている姿が、ヘッドライトの光の中で浮かび上がった。

「ノブ!!

視界にヘッドライトの明かりが見えた僕は、ほとんど反射的に道路に飛び出し、高速でこちらに突っ込んでくる車を横目に見ながら、仔猫を抱いたまま固まっていた伸之を抱き締めた。視界の隅、40m程離れた所にいた白い四輪駆動の小型スポーツカーは、2秒もしなうちに僕等の眼前まで迫ってきて、そしてジュジュを抱いたノブを抱えた僕もろともに、僕をそのフロントグリルで跳ね飛ばした。ノブを抱えたままの僕は、まるでタイガー・ウッズの放つドライバーショットのように、低い弾道で孤を描きながら10m程飛ばされ、向かいにある山下家の門柱に叩きつけられた。

僕は後背部に衝撃と激痛を感じ、呼吸もままならない状態で鋼鉄製の側溝蓋の上にどさりと落ちる。

視界の隅で、裕未が呆然としてこちらを見ているのが見え、僕等を跳ね飛ばした車はさらに7~8m程走ってからやっと止まって、背の高い茶髪男と、生意気そうな顔をした巻き髪の小娘、ショートカットの女学生風、の3人が車から降りて来た。僕が門柱に叩きつけられた後、ジュジュは恐怖でパニックになったようで、どこかに走って視界から消えた。ノブは僕の腕の中で、目を開けたままピクリとも動かない。

「うおっ!!

ライトの光の中に浮かび上がった幼児を見た雅史は、咄嗟にブレーキペダルを力一杯踏み込んだ。アンチロック・ブレーキシステムが生み出す強力なストッピングパワーは、助手席の由紀子をダッシュボードに叩き付け、後部座席に座っていた昌巳のハンドバックをその後頭部に命中させた。しかし、その強力な制動力も、80km以上の高速で路地裏を走行していた1トンもの鉄の塊を、歩行者に衝突する前に完全制動させる事は出来ず、ドンッと言う鈍い衝撃音の後で、子供を腹に抱えて飛んで行く男の姿が3人の視界に写った。

「痛っぁ~…ったく雅史ぃ、アンタどんな運転してんのよぉ」

ダッシュボードにぶつけた頭をさすりながら、由紀子が腹立たしげに呟く。

「跳ねた、よね。」

昌巳はガタガタと小刻みに声と身体を震わせている。二人に応える事もせず、雅史は(やっちまった。これで俺はもうお終いだ)と、指先をカタカタと震わせながらシートベルトを外し、ドアを開けて外に飛び出した。自分が跳ねた男の所まで駆け寄ると、その男は口から血を流しながら雅史を睨み付けた。すぐに由紀子と雅美もやって来る。

「この…クソガキがぁ…どんな運転しとんじゃ…このボ…。」

直哉はそこまで言った所でまた、口からごぼごぼと大量の血を噴き出し、そのままそこで動かなくなった。

「直哉!ノブ!!

目の前で夫と息子が跳ね飛ばされるのを見た裕未は、殆ど半狂乱になって道路に飛び出し、そして二人の前で座り込んだ。裕未は、血を吐いて動かなくなった直哉と、目を開けたままピクリとも動かない伸之の前で呆然と立ち尽くす雅史に向かって、

「早く救急車を呼んで!」

と叫ぶのが精一杯だった。裕未からそう言われても何も出来ない雅史の横で、昌巳は携帯電話を取り出し、震える指で119とダイヤルをする。口から血を流して横たわる直哉と、目を開けたまま動かなくなった伸之を前にして、裕未は何も考える事が出来ずその場にへなへなと座り込み、雅史は(賠償は保険でカバーしてもらえるな)などと考え、昌巳は生まれて初めて見た死体に(アタシはどうすればいいの?)と自問自答。由紀子は(この人、もう死んでるわよ。あーあ、きっと事情聴取とかで今夜はツブれちゃうのね。ツイてないわよ全く)と、吐き出す事の出来ない苛立ちを抱え、機嫌悪げな顔をしながら、近付いてくる救急車のサイレンを聞いていた。

ピンポーン

ピンポーン ピンポーン

「…はい。どなたですか?」

インターホン越しに、特徴のある裕未の声が聞こえる。男はカメラ内臓型ドアホンに向かい、「川田雅史です。」とだけ答えた。何の御用ですか?と尋ねる裕未に雅史は、「昨日、平良交通刑務所を出所しました。今日は、直哉さんにお線香を上げさせて欲しくてお伺いしました。」と静かに言う。その雅史に裕未。

「…帰って下さい。」

とだけ応え、その後は雅史が何度ドアホンを押しても何の応答も無く、ドアホンを30分近く押し続けた挙句に、雅史は諦めてその場を立ち去った。ドアホンカメラからの画像で雅史が立ち去ったのを確認した裕未は、その場に座り込み嗚咽を漏らす。

確かに、交通刑務所で2年半服役してきた雅史は、刑事的には罪を償ったのかもしれない。雅史の車に掛けられていた日本生命の自動車保険からも、二億を超える死亡保障が裕未に支払われた。しかし、夜更けの生活道路を制限速度の二倍を超える速度で暴走し、さらに一時停止無視までして、愛しい夫と大切な息子を奪った男が、殺人罪はおろか危険運転致死傷罪ですらなく、単なる過失致死で済まされた事が、どうしても納得のいかない裕未だった。

「…あんたなんか、永遠に刑務所にいればいいのよ…返してよ。あたしの直哉と伸之を返してよ…。」

リビングの飾り棚に置かれた額縁の中で、生まれたばかりの伸之を抱いた直哉が照れ笑いを浮かべている。裕未はその写真に向かい、「直哉ぁ、どうして死んじゃったのよぅ…。」と呟く。裕未の瞳から涙が勝手に溢れてきて、そしてそれはいつまでもいつまでも流れ続けた。

ピンポーン


(また来たの?)
軽い苛立ちを覚えながら、裕未はドアモニターのスイッチを押す。しかしモニター画面に映ったのは礼服を着た雅史ではなく、清楚な水色のワンピースを着た昌巳だった。

「あら?昌巳さんだったのね。ちょっと待って、今ドア開けるから。」

裕未は、急いで涙を拭きながら階段を降りて行き、玄関の鍵を開けて昌巳を迎え入れる。あの日、たまたま雅史の車に同乗していただけなのに、昌巳は直哉と伸之の通夜にも告別式にもきちんと顔を見せ、その後も裕未は拒み続けたと言うのに毎月、月命日には必ず花束とお菓子を持って来る昌巳に、裕未も次第に打ち解け、最初は玄関で挨拶をするだけだった昌巳も、事故から四年が過ぎた今ではリビングで裕未と二人、共に紅茶を飲むまでなっていた。

「裕未さん、また泣いてたんですか?」

「昌巳ちゃん判る?」

「だって裕未さん、頬に思いっきり涙の跡が残ってますよ。」

「実は今日ね、ほんと、今さっきなんだけど、直哉と伸之殺したアイツが来てたのよ。お線香上げさせて下さいって。」

「それで、雅史さんお線香上げていったんですか?」

「まさか!?その場で追い返したわよ!あんな奴にお線香なんか上げさせてやるもんですか!!それにウチは仏教徒じゃなくって神式よ。

「…そうですか…。」

「昌巳ちゃんは何も気にしなくていいのよ。あなたは単に一緒に乗ってただけなんだから。そりゃアタシも最初はあなたの事も憎んだわよ。だけどあれからもう4年も経ったというのに、あなたは毎月、月命日には必ずウチに来てくれている。直哉を覚えてくれているわ。それだけでもう充分よ。ね、昌巳ちゃん?アナタは目撃者であって加害者ではないの。もう一人の同乗者だった女の子なんか、一度もここに顔見せた事なんか無いのよ。それに、あの時あなたの「時速80kmは出てました」って証言が無かったら、あの男の罪はもっと軽くなって、きっと実刑じゃなくて執行猶予になってたと思うわ。アタシは、直哉と伸之を殺しただけじゃなくって、最初に嘘を言って罪を軽くして逃げようとした、アイツが絶対に許せないの。司法が死刑にしてくれないんなら、アタシがこの手で殺してやりたいくらいよ。」

そう言うと裕未は、ティーカップのアールグレイを少しだけ啜った。裕未が話すのを黙って聞いていた昌巳はしかし、静かにカップをテーブルへ戻し、

「でもあの時、あたしがもっと強く雅史くんに言ってたら、あの人はあんなにスピード出さなかったかもしれない…。アタシ、今でもあの事故の事を夢に見るんです。」

裕未は、昌巳にとってあの事故が、彼女の心に深い傷を与えている事を知っていた。そして、たとえ自分には非が殆どゼロだと知っていても、完全にゼロでは無かったという、ただそれだけの理由で自分を責め続けている事も。あの不幸な事故は二人の命を奪い、そして自分と言う被害者遺族を不幸のどん底に突き落としたけれど、加害者側にいたこの若い女性の心にも深い傷を残し、そして彼女までをも不幸にしたのだと。

しかし、当の加害者はどうだ?二人も殺してたった3年で「贖罪は終わった」と言って刑務所から出てきて、そしてこれからはまた、普通の暮らしに戻るのだ。そりゃ多少は困難もあるかもしれないが、自分から最愛の夫と息子を奪ったアイツは、いつかどこかで、幸せを手に入れて笑顔で暮らしていくかもしれないのだ。自分から何もかもを奪い、見知らぬ他人であるアタシを、こんなにも不幸にしていったというのに。裕未にしてみたら、こんなに不公平な事は無いと、心の底からそう思っていた。

「…国家予算をまるごと損害賠償でもらったって、アイツをこの手で殺したって、アタシの傷は癒えないし直哉も伸之も帰って来ないわ。人を殺したら、その罪はどんな事をしたって償えないの。昔、何とかって政治家が言ってたわよね。「命は地球よりも重い」って。アイツはその重い命を二つも奪ったのよ。そんな罪、どうやって償うって言うのよ?」

裕未はそう言ったまま俯いてしまった。俯いたまま小刻みに震える裕未の顔から涙が滴り落ちるのを、昌巳はただ、黙って見ているしかなかった。

「雅史じゃないか!お前、いつ出て来たんだ?」

閉店間際のレストランバーで、ドアを開けて店に入ってきた男を見たオーナーシェフの大石は、男の顔を見て驚きの声を上げる。「一昨日です」とだけ雅史は言って、カウンター席の一番奥に静かに座った。

「家には帰ったのか?」

「帰りましたけど、親父もお袋も、僕を腫れ物に触るような扱い方か、「そんな物はこの家には無い」って態度でしか接してこないし、決して僕が願うようには扱ってくれないんです。居心地悪過ぎです。」

「そうか…で、ご遺族の所には行ったのか?」

「行ったけど追い返されました。そりゃ、目の前で夫と息子を殺されたんですもの。僕の事、許せる訳なんかないですよね。」雅史はそう言ってすぐに、「何か食わせて下さいよ。お腹ペコペコです僕。」と言って大石の顔を見る。

「ペペロンチーノでいいか?待ってろ。すぐ作ってやるから。」そう言って大石はキッチンへと向き直る。コンロに火を入れて大鍋の湯を沸かしながら、冷蔵庫から片付けていた食材を出してくる。

「でもお前だって、あの事故で全てを失った。そうだろ?将来有望な大学サッカーのエースストライカーが、あの事故で選手生命を絶たれて、何にもなければ最悪でもどこかの学校で監督かコーチにでもなれただろうし、就職ならどこにだって行けただろうに。今じゃ過失致死の前科持ちで、警察照明を求められるような仕事には就けない。多分もう一生、サッカーに関わる事も出来ない。」

「でもきっと、これくらいじゃ二人を殺した罪は償われないんだとあの奥さんは考えてるんだと思いますよ。それに、僕は遺族だけじゃなくて由紀子と昌巳まで巻き添えにしてしまった。由紀子には捨てられちゃったし、昌巳ちゃんも今はどこで何をしてるのかもわからない。大石さん、クアーズかコロナビールあります?」

雅史の言葉に大石は、冷蔵庫からクアーズを出してコップと共に雅史の前にコトリと置き、

「これは俺からのおごりだ。まあ飲めよ。昌巳ちゃんはな、今でも月命日にはご遺族の所に通ってるんだそうだ。お前の分もきっと、昌巳ちゃんが祈ってくれてるよ。あの娘はお前の周りにいた女達みたいな美人じゃあなかったが、少なくとも、お前の周りにいた誰よりも優しい娘だよ。」

「大石さん、昌巳ちゃんの携帯とか判ります?」

「知らんよ。それに、お前は昌巳ちゃんとも会うべきじゃあない。あの事故で傷付いたのは、あの娘だって同じなんだ。もうこれ以上、誰かの古傷に塩を刷り込むような事はするなよ。」

「…そうですか。じゃあ大石さん、由紀子は今どうしてるか知ってます?」

「あの娘か…あの娘の事も、お前は知らない方がきっと幸せだよ。どっちにしても、将来を絶たれたお前の事をあっさりと捨てて行った女だ。もう忘れちまえ。」

「彼女が不幸になってさえいなければ、僕はもうどうでもいいんです。僕はもう、これ以上誰も不幸になんかしたくない。ただそれだけです。」

「ならいいんだ。心配するな。あの娘は今、少なくとも経済的には誰よりも幸福だよ。さて、俺はもう店閉めるぞ。お前もそれ食ったら帰れよ。」

大石はそれだけ言って、窓のカーテンを下ろし始めた。店を片付ける大石をぼんやり眺めながら、雅史はパスタを胃袋に送り込み続けた。

直哉の実家は代々続く天満宮の氏子でもあったので、直哉の家には仏壇は無い。さらに、無神論者だった直哉は神棚すら置かなかったが、直哉が死んだ後は直哉の両親が、小さな神棚と二人の遺影が入った額を、リビングの飾り棚に置いた。裕未は今も、毎朝遺影に手を合わせ、夜は写真の中で笑う直哉に、その日一日の出来事を語り掛ける。結婚してからずっと、夕食を食べながら二人でそうしていた頃のように。

「ねえ直哉。今日ね、直哉と伸之を殺したアイツが来たのよ。アイツ、もう出所してきたみたいなの。直哉を殺して、伸之を殺して、あたしをこんなにも不幸にして、でも、あいつもう贖罪は終わって、明日からはきっとどこかで幸せに暮らすのよ。こんな不公平な事って無いわよね。この国じゃ、交通事故は殺され損って事なのね。」

裕未はブロッコリーとベーコンの卵炒めを口に運びながら、テレビのチャンネルを次々と変えていく。

「昌巳ちゃんも、また今月も来てくれてたわ。二人で一緒に紅茶を飲んだの。あの娘、まだあの事で自分を責めてるのよ。あたし達の事を覚えていてくれるのは嬉しいけど、まだ若いんだし、アタシ、もうあの娘には幸せになって欲しいって思うわ。あの時一緒にいたもう一人の女なんか一度もここに来た事は無いのに、あの娘は毎月ここに来て、きっと自分を責め続けてるのよ。」

写真の中で照れ笑いを浮かべる直哉に語り続けながら、テレビのチャンネルを次々と変えていた裕未だが、ニュースは悲しい事故ばかり、バラエティーは下品なものばかり、ドラマはヘタクソな役者ばかりで、途中で嫌になってスイッチを切った。

「ねえ直哉。笑ってばかりいないで何か言ってよ。」

そう言ってから裕未は食べ終えた食器を片付けて、部屋の掃除をしてから翌朝用に米を研いで炊飯器のタイマー設定をして、朝食の仕込みをしてから、入浴を済ませてフトンに潜り込んだ。そしてその夜、裕未は直哉の夢を見た。

ダイニングテーブルの上には、大きなカレー皿が二つ。ブロッコリーとベーコンの卵炒めが乗った小皿が二つ。今日の夕食の皿が二倍になって、テーブルの上に置かれている。まるで時間が巻き戻ったかのようだ。ただ先程と違うのは、テーブルの向かいでは直哉が、あの懐かしい優しい笑顔を浮かべて座っている事だった。

「それで裕未は、まだアイツを許せないんだ。」

「だって、アイツは直哉と伸之を殺したのよ!許せる訳なんかないじゃない。」

「でも、例えアイツが死んでも、どんなにお金を使っても、僕はもう生き返らない。僕の身体は、この魂を入れる入れ物は、4年前に火葬場で燃やされて、骨は暗い土の下だよ。」

「そうよ。だからアタシはアイツを許せないの。直哉と伸之を殺してあたしを不幸にしたあいつが、罪を償ったって言われて幸せになるなんて許せないのよ。そりゃ、今でも毎月来てくれるあの昌巳って娘には幸せになって欲しいとは思うわよ。だけど、アイツには世界中の不幸が降り注げばいいのに。って本気で思ってるの。それに、直哉は自分と伸之を殺したアイツを許せるの?」

そう言って直哉を見つめる裕未を見ながら、直哉はカレーを乗せたスプーンを口に運び、口にふくんだジャガイモをゆっくりと咀嚼してからそれをごくりと飲み込む。そしてグラスを取って冷たい水を一口飲んでからそのグラスをテーブルに戻すと、裕未の目を優しくみつめながら、ゆっくりとこう言った。

「それはこれからの、彼の生き方次第かな?もちろん僕だって、服役が終わったからって僕等の事なんか忘れてノーテンキに幸せ掴まれたりするのは許せない。アイツは、僕にもう二度と、裕未を抱きしめる事を出来なくさせたんだ。伸之の頭を優しく撫でる事を出来なくさせたんだ。3年かそこら、刑務所に入ったくらいで許してなんかやるものか。だけどね、僕はもう死んでしまったけど、アイツはこの先、数十年は生きていくだろう。現実的に、未来に関わっていくのはアイツなんだ。そしてもし仮に、アイツがその与えられた残りの人生を、マザー・テレサとかマホトマ・ガンジーみたいに、虐げられてる人達とか、卑しめられてる人達とか、苦しんでいる人達とかの為に捧げたとしたら、僕としても彼を許さない訳には行かないと思う。自尊とか自我を超えて、自己実現に身を捧げた人を恨み続けるほどには、僕は狭量には出来ていないよ。」

「でも、パーティーに遅れるからって生活道路を時速80kmで暴走して、一時停止無視して二人も跳ねて殺して、警察に嘘の証言して罪を軽くしようとしたような男が、自己実現に身を捧げるなんて有り得ないわよ。」

「そんな事わかんないよ。人は誰だって変わって行くものだし、変わることが出来るから人なんだ。彼が生きている限り、彼の人間性がブレイクスルーする可能性は可能性として存在している。もちろん、それが無い限り僕はアイツを許さないけどね。」

「じゃあ直哉、アイツを呪い殺してやってよ。アナタが呪い殺したのなら、アタシの気も少しは晴れるわ。」

「申し訳ないけどその希望には応えられない。僕は君を見守っているだけで精一杯なんだ。誰かを呪っている余力なんてもうどこにも無いよ。」

「見守ってるの?」

「もちろんだよ。僕がいなくなった君が幸せになれるその日まで、僕は君の事を見守り続けるつもりだよ。今だって、洗濯物が風で飛ばされないように押さえたり、満員電車でチカンの手を遠ざけたり、君がシチュー鍋を焦がしちゃわないように見張ったり、毎日健気に『縁の下のフェアリー』やってるんだから。」

「ふふ、鍋を見張ってるなんて、ホントにあなたらしいわね。」

裕未はそう言って微笑みながら、カレーを一口ぱくりと食べた。

翌朝、裕未はとても幸せな心地で目を覚ました。昨夜の事が夢である事は判っていたが、それでも許されるのなら、ずっと夢を見続けていたかった。例え夢の中とは言えども直哉に会えた事で、彼と食事を共にし、親しく語り合えた事で、その朝は、裕未にとって何年ぶりかの心地良い目覚めだった。

「さて、と。」

布団から置きだした裕未は、食器乾燥棚に置かれた二人分の食器を食器棚に仕舞った。

二人分?

直哉と二人で食事をしたのは、確かに夢の中の出来事だった。裕未は昨夜、一人で夕食を食べ、掃除をして風呂に入って寝たのだ。二人分の食器があるはずが無い。しかし、食器乾燥棚には間違いなく、二人分の食器が載っていた。

ソファーに腰掛けた昌巳が時計に目をやった時、待ち合わせ時間は既に10分程過ぎていた。ため息をついて昌巳は一杯700円の美味しくないブルーマウンテンを啜り、そしてカップをテーブルに戻す。ファミリーレストランでの待ち合わせを望んだ昌巳に、ホテルのカフェを指定したのは由紀子だった。あの事故の後で雅史と別れた由紀子は、その後すぐにセレブ限定のお見合いパーティーで出会ったとか言う、建設会社社長の長男と結婚し、今は悠々自適のセレブリティな専業主婦になって、主婦仲間とゴージャスなランチに出掛けたり、カルチャースクールに通う日々を送っていた。

「あら昌巳早いわね。もう来てたの?」

由紀子がやってきたのは、約束の時間を17分過ぎてからだった。

「早いわね。じゃないわよ。もう10分以上過ぎてるじゃないの。」

「10分遅れるのはFashionably lateよ。アメリカじゃこれが普通なんだから。」

「ここは日本よ。約束の時間にオンタイムで来るのは常識でしょう?」

「昌巳は相変わらずカタいわね。アタシだって色々忙しいんだから。それで今日は何の話なの?」

「由紀子、雅史くんが出所してきてるの知ってる?あの人出所して先ず最初に、ご遺族の所に行ったらしいんだけど、奥さん、雅史くんを追い返しちゃったそうなのよ。この際だからあたし達3人で行って、雅史くんにも遺影に手を合わさせてあげましょうよ。由紀子だって一度もまだ、ご遺族の所には行ってないんでしょう?」

「ちょっと昌巳、何でアタシがそんな事までしなきゃなんない訳?もうあれは済んだ事でしょう?雅史は刑務所に入って、Jリーガーになれたかもしれない将来を閉ざされて、ご遺族には二億円以上も保険金が払われたんでしょう?もう充分よ。」

「でも、雅史くんは今でもあの人達に謝罪したいって思ってるみたいだし、それにあの奥さん、今も毎日泣いて過ごしてるのよ。その場にいた者の一人として、何かしてあげたいって思うのが普通じゃない?」

「自分の常識が世界の常識みたいな言い方しないで。そう思うのはアナタの自由だけど、それにアタシまで巻き込まないでくれる?仮にアタシがあんた達とあの家に行ったとして、元カレと一緒にいたトコなんて、ダンナに見られでもしたらどうするのよ?アタシは今幸せなの。それを妬んで壊すような事やめてくれる?」

「妬んでなんかいないわ。あたしはただ、雅史くんも出てきたんだし、いい機会だから3人で手を合わせてご冥福を祈って、って思っただけよ。」

「昌巳。そーゆーのをね、『余計なお世話』って言うの。アタシはもう帰るわよ。4時から英会話教室に行かなきゃなんないの。じゃあね。もうそんな用事で電話なんか掛けてこないでね。」

それだけ言って立ち上がると由紀子は、

「待ち合わせココにしてって言ったのアタシだから、ここの勘定はアタシが払っておいいてあげるわ。」

とだけ言うとレシートを掴むと足早にキャッシャーへと向かい、ゴールドカードでスマートに決済を済ませると、あっという間に立ち去っていった。

昨夜から降り出した雨は、一向に止む気配も無く降り続いている。道路脇の用水路を茶色の泥水が流れ、交差点の路面に出来た水溜りを、時折走り去る配達のワゴン車が跳ね飛ばして行く。交差点の角に立つ小さな一軒家の玄関ドアホンの前で、傘をさした雅史は一人で立っていた。家の中では、裕未がモニターに映る雅史の映像をじっと眺めている。

「…もう帰ってください。そんな所にいつまでも立たれたら迷惑です。」

裕未からそう告げられ、雅史が諦めて帰ろうと振り返ったその先に、花束を持った昌巳が立っていた。

「雅史くん?」

「遺影に手でも合わさせてもらおうと思ってさ、でもあの奥さん、今も僕には会いたくないんだって。もう帰るよ。」

「雅史くんちょっと待って!」

昌巳はそう言ってドアホンを押し、モニター越しに裕未に事情を説明。渋る裕未も、「昌巳さんがそこまで言うなら」と渋々同意をして、少ししてからぱたぱたと階段を降りてくる音がした。その直後に玄関の鍵がカチャリと音を立て、そしてドアがゆっくりと開く。雅史は昌巳の跡について玄関をくぐり、裕未が用意したスリッパに履き替えて、2階のリビングへと続く階段を上がっていった。

二階に上がった雅史は裕未に和菓子の入った包みを差し出し、裕未はそれを昌巳から受け取った花束と一緒にキッチンの脇に置くと、昌巳と雅史を椅子に座るように促す。

「あなたがここに来る日が訪れるなんて思いもしなかったわ。言っておくけどあたしは、今でもあなたの事を恨んで憎んでいるの。それもとても強く。もしここに昌巳さんがいなかったら、そこにある柳刃包丁であなたと刺し違えてる所よ。」

「坂田さん。僕はあなたに許してくれなんて言えないし、許してくれる事は無いだろうと思ってます。」

「当然よ。アタシがあなたに望むのは死だけ。それも苦痛と恐怖に満ちた死だけよ。この思いは永遠に変らないわ。」

昌巳は、これまで見た事も無いような裕未の憎悪に満ちた顔と声と言葉に圧倒されて、一言も発する事が出来なかった。そして、自分がここにムリヤリ雅史を連れてきた事を、猛烈に後悔していた。

「許してもらえない事はわかっています。僕はただ、死なせてしまった二人に手を合わせて、謝罪をさせてもらいたかったんです。」

「謝罪をしても、直哉も伸之も帰ってなんか来ないの。謝罪したあなたの心は少しは軽くなるかもしれないけれど、夫と子供を奪われたアタシの傷は癒えないのよ。あなたの自己満足の為に、これ以上あたしを苦しめないで。今日は昌巳さんがいたから話だけは聞いてあげたけど、それとここまで来たんだから手を合わせるくらいはさせてあげるけど、もうここには二度と来ないで。そしてこれだけは覚えていて。あなたは人を二人も殺したの。そして残されたあたしの心に、一生消えない傷を負わせたの。あなたの犯した罪は永遠に消えないしどんな事をしたって償えないの。」

瞳に涙を浮かべて、今にも泣き出しそうになってそれだけ言うと、裕未は「ちょっとトイレに行ってくるわ」と言って、リビングから出て行ってしまった。

「ごめんね。連れて来るんじゃなかったね。」

昌巳は小さな声でそう言って、申し訳無さそうな顔をして雅史を見た。雅史は「せっかくだから手を合わせて帰るよ」と言って、直哉の遺影に向かって静かに手を合わせ、そのまま二分ほどそうして遺影に手を合わせた後、トイレの水が流れる音が聞こえてくるのを合図にしたかのように、くるりと遺影に背を向けて元いた椅子に座り直した。目を真っ赤に泣き腫らした裕未が部屋に入ってくると、雅史は「どうもありがとうございました」と言って深々と裕未に頭を下げ、そうして席を立って帰ろうとした。その雅史を、

「待って。最後にあなたに聞いておきたいことがあるの。」

と言って引き止めたのは裕未だった。椅子に座りなおした雅史に向かって裕未は、

「直哉と伸之に手を合わせて謝罪して、気持ちは少しは晴れたかしら?謝罪したっていう、自己満足にしかならない目的は果たせたかしら?あたしにはこれくらいの嫌味を言う資格と権利はあるはずよね?」と言い放ち、そして一呼吸置いて、

「まず、あなたはあの時どうして、「時速40kmで走っていました」なんて嘘をついたのかしら?自分の傲慢な運転で人を二人も殺しておいて、それで神妙な顔をして平気で嘘をつくなんてどういうつもりだったのかしら?あの事があったから、あたしは余計にあなたの事が許せないの。」

裕未からそう問い詰められた雅史は一度、大きく息を吐き出し、そしてゆっくりと語り始めた。

「怖かったんです。全てを失うのが。あの日まで、僕は大学サッカー部のエースストライカーでした。あのまま順当に行っていれば、今頃はJリーグのどこかのチームでプレイしていたと思いますし、あの頃は、上手く行けば年収数千万、美人のモデルかタレントあたりと結婚して、都心のマンションか都内の一戸建てで、贅沢な暮らしが出来るって思ってました。その約束された未来を失うのが怖かったんです。だから、掴み掛けていた幸せを逃したくなくて、嘘をついてでも自分をかばおうとしたんです。」

「そうやって自分を守る為に死人に罪をなすりつけようとしたあなたが、交通刑務所で改心してここに謝罪に来たって言うの?そんなのアタシに信じられる訳ないでしょう?一体何故、アタシがさらに傷付くかもしれないというのに、ここにやって来たの?」

「ご存知でしょうけど、僕もあの事故で未来を奪われました。生活道路を制限速度の二倍の速度で暴走して、無垢な幼児と優しい父親を跳ねて死なせて、おまけに偽証までして逃げようとした。僕の有罪判決が出た時点で大学は退学。サッカー界からも永久追放されたようなものです。こんな有様になって出所した所で、もう僕はこれから何をしたらいいのかさっぱり判りません。」

「やる事が無いからとりあえずここに来たって言うの?バカにしないで。」

「他に、義務的に行かなければならない所が無かったのは事実ですけど、とにかく、まず最初に僕が死なせてしまった二人には、一言謝っておきたかった、手を合わせておきたかったんです。もしかしたらそれは、単なる自己満足でしか無いのかもしれません。だけど、僕はそれを済ます前に、他の事を始めてはいけないと思ったんです。」

「雅史くん、一体何が、あなたをそうさせたの?」

二人の会話に割って入った昌巳に、雅史はゆっくりと言葉を選んでいるかのように少しの間黙って、少ししてから口を開いた。

「あそこで、刑務所で色んな本を読んだよ。これまでの人生で最大ってくらいに沢山本を読んだ。それと他の受刑者達とも沢山話をした。そりゃもちろん、中には反省なんかこれっぽっちもしていないクズヤローもいたけれど、そこまで自分を責める事は無いだろう?って自分を責め続けてる奴もいた。俺、そんな人の一人に言われたんだ。」

雅史はそこで一旦言葉を切って、そしてバッグから取り出したペットボトルのミネラルウォーターをごくっ。と一口飲み込み、そして言葉を続ける。

「そいつに言われたんだ。お前、今、誰かに殺されたいと思うか?って。もちろん俺は誰にも殺されたくなんかない。って言ったよ。そしたらそいつは、俺に跳ねられて死んだ二人もきっと、そう思っていたはずだ。やりたい事もたくさんあっただろうし、この世に未練もあっただろう。とにかく絶対に死にたくなんかなかったはずだ。だけどお前は、その思いに唾を吐きかけて踏み躙るような事をしたんだ。ってそいつに言われたよ。そいつは俺に、俺は人として絶対にしてはいけない事をしたんだと言ったんだ。俺はその事に関わった全ての人を不幸にして、その人達の心に一生消えない深い傷を負わせたんだと。俺は、俺が死なせてしまった二人に訪れたであろう幸せとか、喜びとか、未来に用意されていたであろう全ての可能性を奪ったんだって。俺の犯した罪は一生消えないし、死んだくらいじゃ償えない。おれは自分が殺した人の恨みと、残された遺族や関わった人達の痛みと哀しみと憎しみを一身に背負うんだって。犯した罪の重さと痛みを一生感じながら生きていかなければいけないんだって。俺は絶対に幸せになんかなれないって。」

「その通りよ。あなたは一人の人間では責任を負いきれないくらい、沢山の人を傷付けて不幸にしたの。3年やそこら刑務所に入って、ちょっとやそっと後悔したくらいで、償いきれるようなものじゃないわ。」雅史を睨み付けながら、裕未が呟く。

「僕の罪は永遠に消えないし、付けた傷は永遠に癒えない。だから僕は、その罪と傷と痛みを一生背負って生きていかなければならないんだって。そこまで言われて初めて、僕は自分の犯した罪の重さを思い知ったんです。」

「それで、犯した罪の重さにいたたまれなくなって、出所してまず最初に、ここに来たって訳?」

「そうです。許してもらえない事くらいわかっています。だけど、とにかく遺影に手を合わせて謝りたかった。すみませんでした。って一言を言いたかったんです。」

「でも、あなたの出現はかさぶたの出来た私の傷から、かさぶたを剥ぎ取って古傷を開かせちゃったの。その事に対して思いは至らなかったのかしら?残された者にとって、あなたの存在それ自体がもう痛みで苦しみなの。あなたに傷付けられた私があなたに望む事はただ一つ。私の直哉と伸之を返して。それが出来ないんだったら今すぐここで死んで。」

深く反省していた雅史の想像を遥かに超えて、裕未の痛みと怒りと憎しみは深く大きいものだった。その裕未の迫力に圧倒され、雅史も昌巳も、何も言葉を発する事が出来ない。

「直哉を返してよ!伸之を返してよ!ここに現れたら私が傷付く事くらいは承知の上で、贖罪に来たんでしょう?だったらその罪を償って行きなさいよ!出来ないんだった今すぐここで死になさいよ!ほら、包丁ならここに、尺の柳刃包丁研いだばかりのがあるから貸してあげるわよ。今すぐここで、腹かっさばいて死になさいよ!!

裕未はそう言って、キッチンから取ってきた刃渡り30cmの柳刃包丁を雅史の前にどんっ。と置き、その向かいにどかりと座った。

出所したらまず最初に、二人の遺影に手を合わせ、謝罪をしたいと思っていた雅史だが、ここはまだ、自分が来てはならない場所だと言う事を、それは遅きに失してはいたが理解した。昌巳はやや興奮気味だった裕未をなだめながら雅史に、「もうあたし達は帰りましょう。」と言い、裕未に冷たい水を薦め、雅史には帰り支度をするように促した。

「もう帰ります。」と言って席を立った雅史に、裕未はいくぶん落ち着きを取り戻した口調で、「それが賢明だと思うわ。これ以上あなたがここにいたら、あたしはきっとあなたを殺してしまうもの。」と言って、雅史をずっと睨み続けていた。それ以上取り乱したり泣き出したりしなかったのは恐らく、裕未としての最後のプライド、と言うか意地だったのだろう。雅史は裕未に何度も頭を下げ、そして昌巳に腕を引かれるようにして、どんよりと沈んだ顔をさらに陰鬱にさせて、よろよろとその家を立ち去った。家を出た二人はすっかり憔悴しきっていて、雅史など両足を引きずるようにしてようやく歩いていたくらいだった。

その夜、裕未はまた、直哉の夢を見た。それは前回よりもさらにはっきりとした、映像のクリアな夢だった。

ぼろぼろのトレーナーとジーンズ姿の直哉が、最近壊れてしまった、食器棚の引き出しを器用に治している。

「やっぱヘリサート打ち込んでボルトのサイズ大きくしなきゃダメか…。素人なら全交換だろうけど、メカニックをなめるなよ。まってろ、ゼッタイに治してやる。」

直哉はぶつぶつと独り言を言いながら、ドライバーとレンチとバイスプライヤーを器用に使って、化粧版の取れた引き出しを治して行く。

「治るの?」

裕未は、その直哉の背中に向かって尋ねる。

「オイラはメカニックだもん。正しい工具と部品さえあれば、どんな故障だって治すよ。」

振り返った直哉は、PBバウマンのドライバーを握ったままそう言って、あの懐かしい笑顔で裕未を見た。

「裕未の顔には、じゃあ、あたしの心に出来た傷を治して。って書いてあるよ。」

「そうよ。それと、あたしが一番治して欲しいこれはあなたにしか治せないし、あたしはこれが治るのなら、他の事なんかもうどうなったっていいの。」

「…申し訳ないんだけど、さすがの僕にもそれは治せない。それを治せるのは僕じゃあないんだ。」

直哉のその言葉に、裕未は少し怒ったような調子で、

「じゃあ、一体誰に治せるって言うのよ。あたしはもう、あなた以外の誰にも治してなんか欲しくないの。あなた以外の誰かを好きになろうなんて気はこれっぽっちも無いのよ。」

そう言った裕未に対し、直哉は子供に話し掛けるような、諭すような口調で、

「ねえ裕未?裕未の心を癒せるのは、裕未しかいなんだ。人には、もちろん君には、自分で自分を癒す力がある。そして心に出来た傷は、自分にしか癒せないんだ。そりゃ職業セラピストとかクリニカル・サイコロジストとかなら、癒えるのに手を貸すくらいは出来るかもしれないけれど、治る意思の無い人を他人が癒すなんて事は、神様にだって出来ないんだ。」

「あたしは治りたいわよ。治る意思なら空からばら撒いてもまだ余る。ってくらいあるわよ。」

「じゃあ、捨てるくらい治る意思のある裕未が、治る為に今一番必要だと思う事は何?」

「そんなの、あなたと伸之を殺したアイツが、苦しみ抜いて死ぬ事に決まってるじゃない。」

「ほら。そんな他人の不幸を願うような事してたら、治る訳ないよ。ネガティブな思いはネガティブを引きつけちゃうんだ。少なくとも、他人の不幸を願ってる間は、治る準備が出来たとは言えないよ。」

「あたしから全てを奪った相手を、憎まずにいるなんて無理よ。」

「でも、その憎しみを乗り越えないと、本当の治癒なんて無理なんだ。人が最も優れているのは、この事に関しては神様よりも優れているのは、人には『赦すこと』が出来るって事なんだ。」

「赦すの?直哉は、自分を殺してそれを直哉の責任にしようとした、あいつの事を赦せるの?」

「ねえ裕未、これはとても悲しい現実なんだけど、今実際に生きてるのは裕未であって、あの雅史って男なんだ。そして僕はもうこの世にはいない。世界中のお金を集めたって、あの男を殺したって、あの男に関係する全ての人を殺してあいつに最愛の人を奪われる苦しみを味あわせたって、もう僕は永久に元には戻れない。」

「だからあいつを赦してあげるの?」

「もう、そうしてあげてもいいのかな?とは思ってる。少なくとも、あいつは変ったよ。ただ服役してただけじゃ何も変らなかっただろうけれど、そこで何があったのかは判らないけれど、間違いなく彼は変った。それもいい方向に。だったら、彼の可能性に賭けるという選択肢もアリじゃないのかな?彼をどんなに憎んでも、僕が生き返る事は無いんだから、誰かを憎みながら生きていくなんてそんな生き方を、僕は裕未にはして欲しくない。」

「あたしがあいつを赦しても、直哉が生き返るなんて事は無いのよ。憎んでも赦しても結果が同じなら、許し難い相手を許すよりも、赦せない相手を憎んでる方がまだマシよ。」

「いや違う。そんな事は無いよ。今の裕未に必要なのは、現実をまっすぐ受け入れて、実際に今起きている変化を認める事だよ。変化を認めて、現実を受け入れて、裕未はその現実に誠実にコミットして行くべきなんだ。例え裕未がそうなる事を誰も、裕未自身すらもそれを望んでいなかったとしても、少なくとも僕は裕未にそれを求めてる。心の底から、そしてとても強く。」

誠実に、切実にそう訴える直哉の言葉をじっと聞いていた裕未は、顎に手をあてて「ぐぐぐっ」と考え込んだ後にゆっくりと顔を上げ、

「直哉があたしに何を望んでいるのかはよく判ったし、出来る事なら叶えてあげたいとは思うわ。ほんとよ。だけどね、やっぱり今は無理。あたしがずっと心の底から憎んでて、出来る事なら今すぐにでも、この手で殺してやりたいくらいなヤツなのに、急に「本当に改心してるから許してやれ」なんて言われたって、そんなのできっこないわよ。」

「今すぐじゃなくてもいいんだ。ただ、裕未がこれ以上あいつを憎んでも、誰も何も報われないしそこには救いなんてどこにも無い。憎しみは何も生まないんだ。って事を意識していてくれたらいい。そうしたらいつかきっと、裕未がその心の傷と喪失を受け止めて、受け入れて、許して、そうしてまた、不安も不満も怒りも恐れも無くなって、笑顔で暮らせる日がくると思うんだ。僕が裕未に一番望んでいるのは、そうなってくれる事だけだよ。」

直哉の言葉をじっと聞いていた裕未は、その視線を直哉の顔からテーブルに置かれたティーカップに移した。そしてそれをじっと見つめながら呟く。

「…そうなればいいわね。あたしも本当に、そうなればいいのに。って思うわ。あたしがそうなっても、そこにあなたがいない事はとてもとても悲しいんだけど。」

裕未がそこまで言った所で、直哉は静かに椅子から立ち上がり、裕未の隣にそっと座った。そして裕未の肩を優しく抱いて、

「ありがとう。それと、・・・ごめんね。」

「直哉ぁ・・・。」

裕未は、直哉の胸で泣きたかった。小さな子供のように泣きじゃくって、「だいじょうぶだよ」と言ってもらって、直哉に優しく髪を撫でてもらいたかった。そんな裕未を直哉は優しく抱きしめ、その耳元で、

「裕未、愛してる。大丈夫。裕未ならきっと全部うまくやるよ。きっとみんな上手く行くよ。」

と優しい、心地好い独特の低い声で囁く。

その時、裕未の心のどこかで、凍った何かが音を立てて砕け散る。そして直哉は静かに抱擁を解き、

「いきなり全てを許して受け入れて。なんて出来ないかもしれない。だけど、全てを一度に始めたり達成させたりする必要なんか無いんだ。ただ、誰かを憎む事だけに使ってる今の暮らしを変えて、とにかく何か、別の建設的な事を始めてみようよ。」

「そうね。いくら沢山保証金をもらったって言ったって、それだけに依存してる暮らしなんて面白味には欠けてるわね。」

「うん。それじゃ、僕はそろそろ行かなくちゃ。裕未、それじゃまたね。」

立ち去ろうとする直哉を裕未は呼び止め、「もう会えないの?」と泣きそうな顔で言う。その裕未に直哉は、

「君が望むのならいつでも、僕は君の側にいるよ。裕未がそうして欲しい時、僕を必要としてる時、僕はいつでもそこにいる。」

直哉は優しい微笑を浮かべてそう言うと、「紅茶美味しかったよ。裕未も淹れ方がずいぶん上手くなったね。僕にはまだまだ負けてるけど。」と冗談っぽく言って、そして静かに部屋から出て行った。

翌朝、裕未はカマスの干物で出汁を取った、豆腐としめじとわかめの味噌汁、鮫肉のかまぼこ、海苔、ごはん、と言う質素な朝食を食べ、食べ終えると食器を流しでささっと洗って乾燥棚に並べ、そうしてから家中のゴミを大きなゴミ袋にまとめ、それを収集所に持って行ってから、バスルームに入ってするすると部屋着を脱ぎ捨て裸になり、熱いシャワーを浴びながら髪と顔を洗い、濡れた身体をバスタオルで拭ってシルクの下着を着け、ランドリーボックスに入っている洗濯物を洗濯機にぽんぽんと放り込み、コントロールパネルを操作して洗濯モード設定をしてからスイッチをオンにする。寝室に戻りドレッサーの前に座った裕未は化粧をして外出着に着替え、そして玄関に降りて来るとシューズボックスからパンプスを出して来て、それを履いて玄関を出た。そして直哉の形見でもあるアライ製のフル

フェイスヘルメットを被り、原付スクーターにまたがってキーを差し込みエンジンを始動させる。庭を掃いていた隣家の奥さんが、家の前でバイクで出掛ける準備をしている裕未を見て、

「あら裕未さん。今日は朝からお出掛け?」

と声を掛ける。その声に裕未は、

「ええ、ちょっと職安へ。あたしもそろそろ働かなくっちゃ。」

と、茶目っ気のある微笑を浮かべながら明るく答え、ヘルメットのシールドを下ろし慎重に道路へと進入すると、静かにスロットル

を開け、BPの化学合成エンジンオイルが燃える白煙と、独特のBPオイル臭を後に残し、陽光の中へと軽快に走り去っていった。

物語は、これでお終いです。
タイトルとかまだ何も決めていないけど、好評だったら推敲して何か賞に応募してやろうかしらん?なんてヨコシマな事を考えてるオイラなのでした。
(^^ゞ

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