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2009年7月

2009.07.20

Love can never lose against anything!!

遂に念願悲願の『お父さん』になっちゃったmizzie、

ホントは仕事も何もかもほったらかしにして、ずっと姫&王子の側にいたいんだけど、オイラは中世貴族階級なんかじゃないんだから、そーゆー訳にもいかない。

で、19日は予定通り、100人近いじーちゃんばーちゃんを引率して、海辺のキャンプ場へバーベキューに行ってきた。
ばーちゃん達のアイドルなmizzie、長男誕生に祝福のハリケーン・カトリーナ状態。んで、ばーちゃん達に囲まれてゴハン食べて、その後のイベントも無事終了、バスに乗って職場に戻り、送迎の家族にじーちゃんばーちゃんを引き渡す。時間は16時30分。

で、『世界片付け』トカあったら、世界の強豪を押しのけて3位くらいにはなっちゃいそうなイキオイで片付けを済ませ、引率職員による反省会も済ませ、挨拶をして家路に着いたのが17時20分。

我が職場から自宅まで、ママチャリ国際A級mizzieの足で、約25分。
我が自宅から姫と王子がいる病院まで、ママチャリ国際A級mizzieの足で、約10分。海辺でのバーベキューで、潮風と砂と汗にまみれた体にシャワーが必要だから、着替え、シャワー、グルーミング、全て含めて身支度に20~25分。合計55~60分で、愛する姫&王子の元に行ける。

行けるんだけど、母子同室な産婦人科にいる姫&王子は、家族面会時間が14~16時と、18~20時のみ。3親等親族以外は、ガラス越しの面会しか出来ない、っていう厳しい所。通常ペースで行ってたら、120分しかない面会時間が、15~20分も短くなってしまう。

「…Love can never lose against anything!!」
なんて言って、ママチャリVer.のmizzie、モード切り替えレバーを「通勤モード」から「エマージェンシーモード」に切り替え。


駐輪場からチャリを出したmizzie、ペダル踏力はウォームアップも無しにイキナリ最大出力。ママチャリだけど変速機付きなmizzie'sママチャリ、高速戦艦ベイオウルフ号。ギアはもちろん最高速。走る場所も車道。前走車のスリップストリームをフルに利用して加速。おばちゃんスクーターをあっさりパスし、片側2車線の大通りから、自宅までのショートカットとなる生活道路に侵入。道幅1.5mの生活道路を爆走。しかし生活道路だと速度を一定以上上げる事は危険なので、途中から高知で一番の大通り、電車通りへと入る。
「子供の見ている前では絶対に道路交通法を守る」なmizzie、エマージェンシーモードで子供が視界内にいない時は、道路交通法順守よりも目的地到達時間短縮を優先する。
赤信号に引っ掛かった全ての交差点を無視するmizzie38歳(介護福祉士・既婚・子供あり)、高知イチの交通量、はりまや橋交差点さえも、ママチャリ切り込み隊長となって右折車両の車列に斬り込み、片側4車線の電車通り、全ての車線をフルに使って、自転車メッセンジャーの様に車の中をかき分けて爆走。

「ただいまー!!」
姫の実家からお義母さんが出てきてくれているので、すぐに姫の所に行くと告げ、着替えをひっつかみバスルームへ。時間は何と17時30分!!!!
通常モードで25分かかる道程を、何と10分で踏破。もちろん新記録。ツ-ル・ド・フランスに「@病院~mizzie宅」と言うコースがあれば、マイヨ・ジョンヌは間違いなくmizzieだ。ってぐらいのペース。
シャワーもお湯ではなく冷水で、激走で熱くなった体を冷やす。
んで、一気に体を冷やしながら汗と潮と砂と埃を洗い流し、超高速仕様でバスルームを飛び出し高速グルーミング。思ったより早く済んだのでついでに歯も磨く。それでも掛かった時間はシャワーと着替え込みで15分。『世界身支度』とかあったら、絶対にファイナリストにはなったな。ってくらいの素早さ。まるで忍者ハットリくん。

エマージェンシーモードになってたmizzie、自宅から病院までも超高速でカっ飛び、職場を出てから35分後には病室で王子を抱いて眼尻を下げてたのでした。

しかし、王子はカワイイ♪  (◎´∀`)ノ

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2009.07.18

誕生!!

誕生!!
8:49分、3286g、めっちゃ元気な男の子です。

オイラがなりたくて、まだなってなかった最後の一つ『お父さん』に、遂になる事が出来ました。

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2009.07.17

破水

破水
ななか姫破水!!

今、分娩室に入ったトコです。
でも陣痛来てないので、朝までは容態観察、朝になっても変化なしなら陣痛促進剤を使う事にするとの説明。

さぁ、これからななか姫の闘いが開始です。

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2009.07.04

ばあちゃん達の戦争

アメリカ合衆国の233回目の独立記念日である今日は、我が故郷、高知が米空軍から激しい空爆を受けて壊滅した、高知大空襲の64周忌でもある。

1945年7月4日。50~80機のB-29編隊が高知市を空襲。市中心部を焼け野が原に変え、高知市は罹災個数11912戸、罹災人口40737人、被害人員712名(内訳死亡401名、重傷95名、軽傷194名、不明22名)、被害建築11,912戸(内訳全焼壊11,804戸、半焼壊108戸)という被害を受けた。

狭い高知市上空であのバカデカイB‐29 が飛びまわったものだから、空中衝突を起こして墜落したものもあったが、地方都市にじゅうたん爆撃を加え、都市機能に壊滅的ダメージを与えた。



僕は高齢者福祉に関わっている関係上、戦争の話を聞く機会に、同世代よりも圧倒的に多く巡り合うのだが、高知で生まれ育ったおばあちゃん達(おじいちゃん達は何故か、戦争の話をしたがらない)にとってもこの高知大空襲の記憶は心に強く焼き付けられているようで、あれから64年が経ったというのに、彼女達の記憶は鮮明で、その時感じた事を僕に語ってくれたりもする。

400人以上の市民が生きたまま焼き殺された、燃え盛る街の中を逃げまどった記憶は、酷いトラウマになっていそうなのだが、そして、80歳代よりも上の世代にとっての高知大空襲と太平洋戦争の記憶は、恐怖と苦痛で彩られているのだが、70代前半のおばあちゃん達の戦争の記憶は、とてもカラフルだ。
彼女達は当時はまだ小さな子供だった。と言う事もあって、「食べる者が無くてね、とにかくいつもお腹を空かせていたよ。(彼女達は古い土佐弁を使うので、そういった土佐弁は標準語に直してあります)」と言って、耐乏生活について語るのだが、小さい子供だった彼女達は、年長の兄姉や家族から優遇されていたのだろうが、80代以降の方達よりも、その記憶に切実さは薄い。

1945年に入ると、高知市や飛行場のあった日章などは、何度も米軍機による空襲を受けているのだが、80歳代以降世代にとってのその記憶は、物凄い恐怖なのだが、~70代前半のおばあちゃん達の記憶でのそれは、ちょっとウキウキしたような、陽気さが混じっている。
「日章の飛行場攻撃に来た米軍機が撃ち落とされてね、あたしら、飛行機の色がキレイでね~大人の人に触ったらいかん!って言われよったけんど、そ~っと近寄って行ってね、破片を拾うて来よったぞね。」とか、「空襲で撃ち落とされたB29(実際は空中衝突だった)が空でバラバラになって落ちてきてねぇ、その中の一つがアタシめがけて落ちてくるがよ。もうどこへ逃げたらえいかわからんろう?ひゃあー!って思うてうずくまったら、それがアタシのすぐ側に落ちて来たがちや。」なんて事を、楽しそうに話してくれるのだ。

戦争のシリアスさとか、残酷さとか悲惨さとかを、実感するには余りにも若過ぎた(だってまだ小学1年か2年だ)彼女達にとって、燃えながら落ちてくる焼夷弾とか、キラキラ機体を輝かせる米軍機とか、花火みたいに火花を散らす高射砲とか爆弾とかも、ちょっと派手な花火みたいなものだったのかもしれない。国民に耐乏生活を強いた政府の事もあって、楽しみとか遊びといった要素を排除された生活を強いられていた、当時は幼い子供だった彼女達にとって、戦争も派手で危険な遊びのようなものだったのかもしれない。

当時、小学校低学年だったおばあちゃん達にとっての戦争は、それなりにカラフルだったりもするのだが、当時、高校生以上だったおばあちゃん達のそれは痛ましく、悲しく、恐ろしい。学徒動員として労働奉仕を強いられ、機銃掃射に逃げ惑い、乏しい配給でいつも空腹に悩まされていた。親友を徴兵で失った者もいれば、空襲で家族や友人を亡くした者もいる。あの戦争に深くかかわらざるを得なかった世代にとって、あの戦争は彼等・彼女等の心に深い傷を残しているのだ。


7月4日。アメリカ中が大人も子供も独立を祝うこの日は、僕達高知市民にとって、戦没者への鎮魂と、不戦の誓いを新たにする日だ。



参照記事:『高知市における戦災の状況』URL:
http://www.sensai.soumu.go.jp/state/html/39201---kochishi.htm

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